dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

勝手に共感

面白そうな記事見つけたので読んでみた。

自分の言いたいことを両名がまんま言っていて笑ってしまったのですが、ほかの読者的にはどうなんだろうこれ。特に2ページ目。

AIの遺電子は1巻だけさらっと読んだけどそこまでハマらなかったんだよなー。なんかこうテレビ版のサザエさんを漫画として読まされているような気がして。原作のサザエさんはテレビみたいな感じじゃなくてもっと激物だった記憶がある。

こういうのをテレビでながら見するぶんにはいいんだけど(受動だから)、漫画となると能動的に読み進めないといけないから煉獄感があるというか、そういう感じであまり気力が湧いてこないというか。絵柄も結構無機質だし。

ただまあ、押井守が好きだというのはなんとなくわかる。何もしなくていいからっつってフォールアウトを延々とやり続ける人だし。

いや、そこまで押井守に関しては追っかけているわけではないし伊藤の中に出てくる余剰みたいなもので流れの中で少し知った程度ではあるんだけど、その伊藤フィルターを通して見た押井守は好きそうだなというのはわかるという話で。なんか言い訳がましいこと書いてますが、言い訳ですからねこれ。

 どうでもよくないことではあるんですけど、なんかこうクリエイターってマスで世間を語るきらいがあるような気がする。そりゃまあ読ませる物であるからにはわかりやすくしなきゃいけないんだろうけど。

 

山田:僕らはAIが「聞き分けの良い優秀な人間もどき」みたいものになるんだろうって思いがちなんですが、でもそうじゃない、人間臭くない未知の知性になる可能性もあって、怖くもあるけど、そいつに出会ってみたいっていうのが個人的にはあるんです。

 

とまあ抜粋してみたけど、そもそもAIを「聞き分けの良い優秀な人間もどき」と考える人ってそんないないでしょう。そりゃアイアンマンを見て「フライデー萌え」とか思ったりするけれど、それは要するに単純に戯画化された属性を楽しんでいるわけであって、そうなるとは思っていないでしょう。

たぶん、わたしが「AIの遺電子」を読んでそこまでハマらなかったのは、自分にとってすごく当たり前のことを当たり前にフラットに描いていたからなのだろうと。もちろん、それを話としてハイクオリティの一話完結に落とし込むことは卓抜した能力ではあるのだけれど。

まあでも実際は自分や山田氏のように考えてる人は、それこそ山田氏の考えているように少数で、実際のところはAIがどうのこうのなんていうことを考えている人は話のつまにしてはいても真面目に論考する人はいないんだろうなーとは思う。

だって、大多数の人は自分のように半ば無職で時間を持て余して本を読んだりNHKを見たりすることもなければ山田氏のように関心自体を職業にしているわけではなく、一日一日の仕事をして生活することだけでも大変なのに、そこに来て「人間がどうのこうの」なんて頭脳労働をしたい人はよほどのもの好きなわけで。

だからこそ、カジュアルにそれを描いた「AIの遺電子」はウケているんだろうけれど、現代のブラックジャック(だっけ?忘れたけど)みたいに呼ばれるには少し方向性が異なっているような気がするぞよ。売り文句としては一見、最適に思えるけど、ブラックジャックはむしろフラットに毒気を仕込んでくるところに妙味があるんだから、とNHK手塚治虫のドキュメンタリーを見て思った。

 

今更過ぎる振り返り

そんなわけで、半ばドキュメンタリーの感想を書くブログになってきていることを危惧しつつ、別にそうなっても問題がないという体のブログであるような気がしてくる。

Eテレの「亜由未が教えてくれたこと」の再放送を観ていて、まあ番組の構成とか話そのものに思うところがあって書き残しておこうと思った次第です。

あらすじとか内容については一々振り返ることはしないし、知りたい人用にリンクを貼っておく。

「亜由未が教えてくれたこと」坂川智恵さんインタビュー 第1回「障害者の家族は不幸」という言葉 | 福祉の潮流 | ハートネットTVブログ:NHK

 

この番組の冒頭では「相模原障害者施設殺傷事件」に触れられ、この番組のディレクターの妹である亜由未という肢体不自由(右手と首しか動かない)と知的障害のある心身障害者の介護を題材にしたものなのですが、まあなんというか事件のことにはもうちょっと最後に触れておくべきだったのではないかと思ったりする。

というのも、社会的にもインパクトの大きいデリケートな問題を坂川一家の問題にしてしまっているからだ。

ほとんどが彼らの家のような感覚なのだろうが、中にはもっと疲弊し絶望している人もいるはずで、「京都認知症母殺害心中未遂事件」のような結末を迎える可能性だって少なくないはずなのだから。あれの事件の、あまりに悲しい顛末が報道されたのも去年でしたか。

我が家にもアルツハイマー認知症の血縁者がいるわけだが、わたしが取っている対応としては基本的にどっちつかずというかヘルパーさんに完全に任せているので、たまに夜に叫んだりしたりすることを除けばそこまで気になったりはしない(というと嘘になるけれど)。この方法はもちろん坂川一家のような団欒で悩みを抱える真正面から相手をしないことで「京都~」の事件のようになる危険性を徹底的に排除しているわけだけれど、それ以上の進展が望めるわけでもない。

とまあ、そんなことは実は今回書きたい事ではない。そんなものは、それぞれの家庭で異なってくるわけだし、番組中で坂川智恵氏が言っていたことが自分の考えとほとんど一緒だし。

どちらかというと、この番組のきっかけとなる「相模原~」事件のほうのことを考えたい。というか、事件発生したあたりでさんざ語り尽くされたとは思うのだけれど、自分の中で言葉にしておく必要はあるだろうし、それだけの価値のある問題だ。

とはいえ、これから書く事はわざわざ書くほどのことでもない、誰もがわかっているごくごく一般的な倫理と正義の話でしかない。

 

事件のウィキを一通り読んでみたけれど、彼は正義感の強い男だった。おそらくは学生時代に学友を殴って転校したというのも、何かしら自分の正義に反することがあったからだろう。

さて、この短文の中で出てくる「正義感」というものが非常に厄介であり、正義とは名ばかりにその実はエゴイズムであり置き換えたところで何一つ違和感はない。

そして、この正義というやつは施設側が言ったとおり「ナチス・ドイツの考え方」と同じだ。つまり、世界をよりよくしようと当人たちが本気で思っているという点で、そして誰かを排斥することで・弱者をまびくことでより良くなると信じていた点で共通する。

人の尺度なんてものは人によって異なるわけで、幸せかどうかということだって結局はその人次第であるわけで。

人の幸せを自分の尺度で図ることをなんというか。それはレイシズムという。

だが、よく考えてみて欲しい。事件に関してはあきらかに度が過ぎていたとはいえ、我々の中にそのような思考プロセスがないと言い切れるだろうか。小さな親切大きなお世話という言葉は、つまりそういうことではないのだろうか。

こんな考え方ばかりをしていると、どんどん自分の首を絞めることになるわけだけれど、だからといって自分の醜悪な内面から目をそらすには、この事件は磁力が大きすぎるのだ。

人為による事件とは、つまり我々の社会の表裏であり合わせ鏡の構造であるということを夢々忘れてはならないのだと、事件から一年以上が経過した今になって思うのだった。

 

 

 

 

懲りもせずドキュメンタリーを見る

ミラーリングという言葉がある。

ここでいうのはpc用語のほうではなくコミュニケーション手法のほうで、ウィッキー曰く「相手の動作に対して、まるで鏡のように自分の動作も合わせる方法のこと。」とある。

はからずも、これは自分という個が外界・・・つーか内界含めた世界全体に対するあり方を示しているように思う。

 

わたしは地球儀を向けられて「ミャンマーがどこにあるかわかる?」と言われたら答えられない。アジアの国という漠然としすぎていることはわかるけれど、それ以上のことは何も知らない。曲がりなりにも最高学府を出ているにもかかわらず。そうして調べてみると、一番上にWikipediaが出てきて、ビルマ語が対応していない機種がほとんであるという事実を知る。そもそもビルマ語というものを初めて知る。

ミャンマーでは25%の子どもが学校に通えない「らしい」。テレビ画面に映っていたのはレンガを数える仕事をする少年だった。彼の名前は「テッ」という。この世に「っ」という促音で終わる名前があることを知らなかった。かといって、驚きがあったわけではない。一種の諦念(という名の自己欺瞞)で予防線を張っているため、世界に対する向き合い方もそれに相応しいものなのです。だから身体性の伴わない情報に対して大きなリアクションをすることができない。というか、しないようにいつごろからか自己形成を始めていた。たぶん、高校時代のあまりに外界への無頓着の反省でもあるのだろうとは思う。それを否定するつもりはないし、ごく平凡な高校生活以上のものではなかったのだけれど。

レンガを数える仕事で思い出したが、そういえばほんのページをひたすら数えるだけの見た目は少年・実年齢は青年の輩がいましたっけ、フィクションだけど。当初は「そんな楽で苦痛な仕事があるかいな」と思っていたけれど、テッの仕事を見たあとではあながちありえないものでもないのかもしれないと思ったり。

そういう、彼やミャンマーに暮らす人にとっては当たり前のことも、自分は知らない。そういう世界があることを知らない。

無知をひけらかすようですが、都道府県も全部言えない自信がある。そんな常識すら答えられないのである。

でも、じゃあ常識って何だろうか。「常識的に考えて」「常識問題」って慣用句みたいに使われているけど、常識って何。それを規定する具体的な境界線はああるのだろうか。義務教育で教わったこと、と線引きできないこともないけれど、実際は高等教育を受けていることが前提の社会であるから高校生レベルの知識は必要だ。じゃあ高校生レベルの知識ってなんだ。そもそも、文理選択によって分化するだろうし学校やそれこそ偏差値によって個々の知識も変わってくる。というか、常識がイコールで知識なのかという疑義を呈してみることもできるし、考え出すとキリがない気がする。一番それっぽいのは、全体の平均とかそんなところだろうか。

 

こんな益体のないことをグダグダと書き付けておきながら、別に常識についてこれ以上何かをどうしようというつもりはなかったりする。(というか書いているうちに何が書きたかったのかわからなくなったり書きたいことが右往左往してまとまりがなくなったりする)

ただ単に、どれだけ世界が広大無辺なものであったとしても、自分が知っていること以上のことはないということだ。

無知は罪だ、と言う人がいる。そういう人は、主にそういうことを言えるだけの余裕を持った人で、基本的には我々のように安寧を貪る側の人間に近い。しかし、どうして知らないことが罪なのだろうか。それはたぶん、今どこかで起こっている悲劇(一秒間に何人が死んでいるだとか何パーセントが教育を受けられないだとかそういう現実だ)を知らずにのうのうと平和に生きていることを咎めているのだろう。もっといえば、そういう現実を知ってしまった彼らは、世界・現実に対して誠実であろうとするがあまり「知らなかった」状態に戻ることができなくなり、それを知るまでは「非日常」だった世界を自らの「日常」とすることでしか世界に向き合えなかった人々なのではないかと思う。そして、非日常を日常化してしまった彼らはそれ以前の彼ら自身=無知な人々を嫌悪とまではいかずとも、無責任な奴輩だと批判的な目を向けているのではないだろうか。

もっとも、それは少子化社会の中で義憤に燃える母親のようなものなのかもしれない。少子化という今ある現実に対し、子を宿し出産するということはそれ自体が現実への誠実なアプローチであり、子供を産めばそれ以前には戻れないんだもの。子供を生んだ以上は育てる義務があるのだから。同じように、現実を知った以上はその現実に対する責任が生じる。と、誠実な彼らは思っているのだろう。そして、世界をよりよくするために子を産めと、世界を知ってその責任を負えと要請してくるのだ。

大半の人は、戦争や孤児や難民や色々な悲惨な話を聴いてその場で何か思うことがあっても、次の日にはあるいは次の瞬間にはそれまでの日常に回帰してしまっている。わたしだって、こうして日常に戻ってきているわけだし。もちろん、少なからず現実に思うところがあって、誠実に向き合えないまでも不実ではいないようにとこうやってブログに綴っているわけではあるけれど、だからといってテッを救うために具体的な行動を移そうとは思わないだろう。本を読んだりドキュメンタリーを積極的に見たりする要因にはなるだろうけど。

そういえば、大学の同期に一留して海外にボランティアに行った人がいたっけ。彼女が今どうなったかは知らないけれど、普通に就活していたということは後輩から聞いた記憶がある。

彼女もまた、誠実であろうとして行動に起こしたのだろうか。

 

 

だけどわたしは、身体性を伴わない情報をフィクションとして捉えるようになってしまっている。というか、ほとんどの人はそうじゃないだろうか。どれだけテレビで悲惨な事件や事故を目にしても耳にしても、話のタネにする以上の何かをしようとする人は多くないはずだ。それが、たとえ3.11であったとしてもだ。

はっきり言おう。3.11のときに逃げ惑う避難民や異常をきたした原発を目の当たりにしても、放射能汚染云々と世間が騒いでいる(ように見える)中でも、わたしはほとんど無関心だった。なぜなら、それらの情報すべてに「わたしの身体性」は介在する余地がなかったからだ。もちろん同情の念を抱いたりはしたし、不安に駆られることもあった。だからといって、何か具体的に行動に起こしたかといえば、そんなことはない。

だって、身体性の伴わない事象なんてものは結局のところ他人事でしかないのだもの。それはほとんどのクリエイターにとっても、そうであると思う。いや、もちろん何かしらを創作するという行為によって現実に誠実に向き合っていることはたしかなんだけれど、当事者ではない彼らの創作行為は現実に真正面に向き合ってはいるけれど間接的でしかないんじゃなかろうか。逆説的にいえば、当事者であるクリエイターたちは直接的に現実に向き合うために間接的な手法を選択したということであって、それは多分直接的に現実に対処するよりも現実的な手段なのだろうけれど。皮肉なことに。

 

だから、テッの現実を知ってもわたしはこうしてブログをダラダラと綴るだけのことしかやらないしできない。

そんな精神性しか持ち合わせていない。心の構造が物理的に解き明かされつつある今、心すらも身体性の中に取り込まれているのではないかという気がしてならない。そうなると、身体性の欠如した世界との接触なんてものはやはり接触と呼ぶにはあまりに希薄すぎやしないだろうか。なんていうのは、あまりに自己擁護が過ぎるかな。

まあ、これが自分なりの正直さではあるのだけれど。

 

何が言いたいかってーと、ほとんどの人はその現実の当事者でもないかぎり世界へのリアクションは希薄なものになるんじゃないかな。

まあ作用反作用の法則じゃないけど、自分にとって現実の作用が大きくないとその反作用としての世界への働きかけというものは同等以下なものがほとんどなんじゃないかと。

現実からの作用に対する個々の反作用量というのは、その人が培ってきたものに依拠しているんじゃないか、と。

 

んなこと長々とまとまりない文章を垂れ流すまでもなく自明ですが。まあ、だから雑ソウなのですが。

 言いたいことがまとまらなくて散漫になっている上に、下書きしたまま一向に記事にするための最低限の体裁すら整えられないものがどんどん溜まっていくのも結構つらいんで、こうしてどうにか吐き出していかないと逆流しかねないし。 

 

 

毛ほども関係ないのですが、ミラーリングと打ち込もうとして誤って「ミラーリヌ」という存在しない(どっかの地域のどっかの国では何かしら、それこそ神とかって意味を担っている可能性もあるし誰かの名前だったりすかもしれない)言葉をタイピングしてしまった。なんだか意味ありげで意味がない(少なくともヤフー検索では引っかからない)というのが、なんだか可笑しい。

テレ東が熱い

「ハイパーハードボイルドグルメリポート」っていう番組がすごい。語彙貧弱で申し訳ないんだけど、この「ハイパー~」はグルメリポートと銘打っておきながら全然旧来のグルメリポートじゃない。第一ね「戦場で人を大勢殺したリベリアの娼婦は億万長者になることを夢見て今日も墓場へ帰っていった」なんて字面が出ますか、グルメ番組で。台湾マフィアの組長の宴会とか、情報提供者の話とか完全に創作の世界で笑えてくるんですが。「おはよう、たけしですみません」も朝から攻めてるとは思いましたが、相対的に陳腐に見えてきてしまった。や、そもそも番組コンセプト自体がそれを狙っているので問題ないんですが。

 もっとも、似たようなことはすでにドキュメンタリー映画とかでもあるんだろうけれど、飯だけに焦点を絞るっていうのは中々面白いコンセプトですよねぇ。飯=食という人類はおろか大半の生物にとって必要不可欠なフィルターを通してアングラ(といっても彼らにとってはそれが日常なのでしょうが)を覗くことで、我々のような安寧に生きる日本人に親近感を抱かせるーーーーなんていうことはなく、食を映し出そうとすることで必然的に見えてくる彼らの生活があきらかに我々と異なっていることを再認識させる。

 元少年兵の青年と元少女兵の娼婦の食の後に台湾マフィアというのもそこはかとない構成の悪意を感じる。娼婦の彼女が夢見る億万長者の姿を恣意的に切り取ったとしか思えないでしょう、この構成(笑)。もっとも、この台湾マフィアはテレビ上は悪い人とは思えないんですけどね。テレビ上は。

 ちなみに来週はギャングの飯だそうですよ。

一応リンク貼っておきますが、別にお金とかもらってませんので。

www.tv-tokyo.co.jp

 

そうそう、あと「わたしのハワイの歩き方」っていう映画も観ました。こっちで軽く触れておくだけにとどめますが、いい意味で日本の連続ドラマ的な匂いがする映画でした、はい。池松壮亮とか加瀬亮とか瀬戸康史とか、榮倉奈々とか高梨臨とか、なんかチョイスがすごい独特なんですよね。榮倉奈々とか、決して演技が上手いわけではないんですけど、たしかにカジュアルさがあってドラマには向いてる感じがしますからこの話にはピッタリだと思うよ(適当)

映画にかこつけて制作スタッフがハワイを満喫するための映画だったんじゃねーかと思うくらい、ハワイの宣伝してたし。

 

nhkドキュメンタリー

で、昨日の夜にやっていた「ミシェルの夢」っていうドキュメンタリーを見たんだけれど、すごい。

何がすごいって、見ていてまったく何も思わなかったの。2016年のアメリカで作られたドキュメンタリーなんだけれど、いやマジで何も伝わってこないの。

普通、ドキュメンタリーってそれを撮る監督に何か伝えたいことがあるからこそだと思うんだけど、これは本当にただカメラを回して淡々とミシェルを撮影しているだけのような寒々しさを感じた。なんだろうこれは。冷淡とか怜悧とか、そういう視線すら介在していないように思えるのですが。

 昨日やっていた「オレグの自立」を見損ねたんだけど、こっちもいつか再放送してくれんのかしら。

狡い

結局のところ、どいつもこいつも知ってること以上のことは言えないんですよね。

それとも、知っててあえて言わなかったんだろうか彼奴は。しかし、それは業界に身を置く一人の芸人(じゃなくてコメディアンと呼んだほうがいいのかしら)として「ドキュメンタル」に触れないのはどうなんだ。仮に知らなかったとして、自分の国の自分の領分のことを知らないのに批判しているのは失笑ものだし、知っていてあえて触れなかったのならそれこそ嘲笑ものである。

意図的にせよそうでないにせよ、自分のバイアスでしかモノを見れない人っていうのはマジョリティー側にいようがマイノリティー側にいようが害悪と言わざるを得ない。

まあなんとなくはわかっていたけど、彼奴はアメリカに憧れる逆weebとしての性質が強いのだろう。

マクロ視点でしか語れない奴は少数を見落とすだろうが、ミクロ視点でしか語れないやつだって立場が違うだけでやっていることは同じだ。結局、ネットで誹謗中傷しているやつと変わらないじゃんか。たとえ相手が本当に悪であろうと、強盗犯を殺人犯がごとく批難するのはお門違いだもの。

 

とはいえ、それに対する忖度・憂慮が行き過ぎた結果として自縄自縛・自己言葉狩りに陥っているのはそのとおりだろうけど。

 

無神論者、宗教を擁護する


 破滅願望むき出しのファンダメンタリストしかり、isisしかり、もちろん我が国におけるオウム真理教しかり。とまあ他者への脅威をもたらす奴輩からヘブンズ・ゲート(は宗教じゃなくてカルトか)といった集団自殺による自己完結で終わる連中までいる。

 どうしてそうなるのかといえば、ある人は「宗教は考える力を奪うからそうやって考えなしに迷惑を振りまく(意訳(ってほど意訳でもないが))」と言った。その人はスタンダップコメディアン無神論者であるジム・ジェフリーズの話題を取り上げた。

 ジム・ジェフリーズは地球を線路、社会を列車にたとえて以下のように小噺をする。

 列車(社会)は前進しなくてはならない。止まってしまったら我々はたち
まち止まった列車(社会)の周りにあるだけの資源を食いつぶしてしまうから。そして立ち止まってしまった列車は二度と動かなくなってしまう。だから列車は動かし続けにゃいかんのだ。列車の先頭車両には、運行を仕切っている人たちが乗っている。この社会においてそれは科学者だ。科学者が作った薬、編み出した手術などによって以前よりずっと長く生きることができるようになった。新たなエネルギーをもたらしてくれるのも科学者だ。より効率的に働く機械を作るのはエンジニアたちで、彼らもまた科学者。ここで重要なのは、ほとんどの科学者は無神論者だということだ。

 

 とまあ、ここまでは納得できる。かなり怜悧な視線だとは思うが、ぶっちゃけ事実ではあるだろうし。映画「トゥモロー・ランド」は才能のあるものが世界を牽引し、才能なき者はそのおこぼれに預かるのが世界の真理であるというような論を展開する。

 たしかにエンターテイメントにおいてそんな主張をする作品はそっぽを向かれるだろうけれど(というか中だるみする部分があったりと、そもそも映画として退屈な部分があるのは否めないのだが)、わたしには体重計の数字から目を背ける肥満と同じ精神行動に思える。だって、それってまごう事なき事実だし。

 つーか頭いいやつって基本的に頭悪い奴のこと見下してますからね。こんなこともわからないのかって。自分はちょうど両者の中間にいるので、どちらの気持ちもわかりますですが。

そんなわけでここまでは割と同意を示せるのだが、どっこい、このあとが少しひっかかる。 

 

ところが前から二番目の車両に乗っているのは不可知論者だ。優柔不断のアホども。やつらは二番目の車両で「(神が存在するかしないかなんて)はっきりしない」と駄々をこねている。連中はまた「ビッグ・バンがあったなら、それを起こしたのは誰なんだ?」だとか「わたしは宗教的なのではない。スピリチュアルな人間なんだ」なんてのたまう。

 

 宗教依存者ではない不可知論者に対してもこれだけ辛辣なのですが、宗教依存者についてはもっと酷薄なことを述べています。

 個人的には、不可知論者のスタンスは科学哲学である反証可能性に近いのではないかと思っているので、むしろいい塩梅だと思うんですがね。そりゃまあ「知覚できるものがすべて」とまで言いだしたらどうしようもないですけど。

 で、宗教依存者へのお言葉は↓こんな感じ。

 三番目の車両は、最初の二両を合わせて五十倍にしたくらい巨大だ。そこに残りの人類が乗っている。イスラム教徒だとかユダヤ教徒だとか。どいつもこいつもお祈りしながら踊ってる。そういう輩があまりにも多くて重いから列車は前に進めない。だから機関室にいる人はこう考える。「もし、先頭車両と二両目以降を繋いでいる連結器を外すことができたらどれだけ列車をスピードアップさせることができるだろうか?」と

 

 

 うーん、翻訳もかなりほかからの手助けをしてもらったくらい英語がわからなければこの人についても実のところあまりよくは知らないので、これだけを間に受けるのはいかがなものかと思うのです(この言動は彼にとって仕事でもありますから)が、少なからず宗教依存者に対して嫌悪感を抱いていることは事実でしょう。

 でもこれって、差別じゃなきゃなんなのか。

 彼は科学者を敬い宗教依存者≒神を信じるものを蔑む。この人の発言には意図的か無意識的にかわからないが、重要な論点がすっぽり抜けている。この人に限らないのだけれど。

 その論点というのは、その両方に立つ人のことだ。科学者であり神を信じる人。ジム・ジェフリーズは科学者のほとんどは無神論者といったが、そもそもそれは根拠のある言葉なのだろうか。

 国連が行った面白い調査がある。

 

www.epochtimes.jp

 

 この記事では、過去300年の間に素晴らしい功績を残した科学者を対象に、神を信じるものがどれだけいたのかを調査した結果が記述されている。で、八割以上の科学者が神を信じているという調査結果が出ている。

 まあ地域別に見たりするとかなり結果にバラつきが出そうな気もしますが、これを科学者の大半が無神論者であるというジェフリーへのカウンターの論拠として援用することはできるだろう。

 もちろん、彼の二の轍を踏まないように、わたし自身も慎重に考えなければならない。つまり、どちらが先かという問題もそこには含まれているからだ。科学を探求しているうちに神の存在を見出すようになったのか、神を信じその正体へと近づくために科学に傾倒したのか、とか。どちらにせよなんらかの絶対的な存在に注目していることはたしかだが、プロセスを蔑ろにすることはできない。

 わたしがここで言いたいのは、宗教依存者を批判するのであれば、神を見出す・見出そうとしたことで科学に貢献してきた人もいるということを語らなければ不公平でなないか、ということだ。たとえそれが誤差のような少数の特例であったとしても、それをすくいあげるのがポリコレじゃないのか? それらをこぼしてしまえば、それこそマイノリティ批判に繋がるではないか。それどころか、国連調査だとマジョリティですらあるかもしれないのだから。

 わたしが知っている中にも、素数だったか万物の理論だったかを研究している数学者が、神の存在を数字の中に見出していたはずだ。名前忘れたけど。

 

 たしかに、宗教依存者が見る神と科学者が見る神は違うかもしれないが、だとすればなおさら慎重に語るべきではないか。そもそも科学の始まりからして宗教は重要な位置を占めているのに、なぜ宗教を悪とみなすのか。逆に問いたいのだけれど「宗教」という明確なものでないだけで、日常の中に宗教的な行動=考えずに取る行動を起こさせるものがまったくないと言い切れるだろうか。それを考えないということこそ、宗教的な行動じゃないのかしら。

 うーん、しかしそうなるとルーティーンやアルゴリズムまで宗教的行動としてみなされてしまいかねないんだすよね。案外、線引きが難しい問題だ。

 前々から思ってはいたんだけど、目下、遠藤周作の「沈黙」を読んでいて宗教とその内部にいる者の葛藤がすごい面白かったので吐き出しておくことにした次第ですたい。普通に小説として面白いから、そのうち読書感想文の方でも書きたいな。 

 

 あとまあ、科学崇拝・知識崇拝・学力崇拝っていうのも肌で感じている部分があったりするので、そのへんにもちょっと触れたい気もするんだけど面倒なので気が向いたらにしよう。