dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

挙手する女性たち

 

女性たち、という部分がすでにアレか。ケヴィン・スペイシーのことを考えると人たちにしないと。

 

「#Me Too」が話題になっている。これに関してカトリーヌ・ドルーヴ批判していたりして、不謹慎ながら色々と混沌とした状況になっていて面白いのだけれど、日本でもはあちゅうという人(この人について何も知らないんですが)のツイートなんかが取りざたされた(されたのか?)りしたわけで、特に映画業界から端を発したということもあってわたしもゴシップ的に楽しんでいたわけですが、それとは別に何か奇妙な感覚を抱いていた。で、それがゴールデングローブ賞の一件やジェームズ・フランコまでがそういうセクハラ(ていうか参照した記事の内容が本当ならほとんどレイプなんですが)に及んでいたという記事を読んで、改めてこの一連の騒動における自分の奇妙な感覚について考えを深めてみた。

 

ただまあ、もしもこの記事を目にする人がいたとしたら、どんなにわたしが前置きをして予防線を張っておいても糾弾するだろう。それはまあ覚悟の上ではあるし、おそらくはその糾弾は倫理として正しいことなのだろうけれど、これから書こうとしていることは倫理のレベルの話じゃないとだけは言っておきたい。

 

そんな予防線を張った上で、奇妙な感覚について、その正体がどのようなものだったかということなのだけれど、簡単にまとめてしまうとこのムーブメントを傍から見ているとすごく「ダサい」のだ。

何がダサいのか、と問われれば一言だけ「便乗する姿勢」と言い添えるだけなのですが、倫理というレベルにおいてしか語る余地のないこの騒動においてこれほど被害者たちを逆なでする言葉もないだろう。

そりゃもちろん、それはお前が騒動とはまるっきり外にいるからだ(文明社会に属している以上は他人事ではないのですけど)とか、被害者の気持ちがわからないからそんなこと言えるのだとか、まあ正論で反論しようと思えばいくらでもできる。それが感情論だろうとなんだろうと。効率、という話を持ち出すと余計な批判にさらされる上にそれを良しとしているシステムとか社会構造にまで話を広げないといけなくなるのでしませんが(そもそも、そこまで知見がない)。そういう問題じゃない、と言われればそれまでだし。ま、前提としてすでにわたしが既述しているんですけど、それについては。

自分がもし被害者だったら同じような行動を取るだろうし・・・・・いや、どうだろう。自分は結構反射的に反撃してしまうタイプだから、そもそもMETOOみたいな後出しという形式にならないかもしれないけれど。

でもね、騒動のきっかけとなった最初の数人はともかくとして、そのあとに続く何百何千何万という被害を訴える声は、あまりに「虎の威を借る狐」ならぬ「数の威を借る狐」のように見えてダサいのだ。この世の中、セクハラ・パワハラは他人事ではなく明日は我が身であると考えてはいるけれど、第三者の目にはこうもダサく写ってしまうのかと苦笑いしてしまう自分もいる。

虎の威を借る狐ということわざは批判的な意味として用いるわけですが、それがなぜかといえば、ある側面において醜い・・・とまではいかずともダサいとみなされるからだ。「#Me Too」というのはまさにこの言葉の示すとおりであって、後ろ盾となるパワーが異なるだけで性質としては同じものだと思う。別に威張ってるわけではないし被害を白日のもとに晒すことは重要なことではあるんですけど、あげられた反撃の狼煙の源がほとんど外界に依拠しているという様相が、傍観者の目線からするとダサい。

そういう後ろ盾を使ってもダサく見えないのは、それに自覚的であるかどうかだと自分は思います。この騒動は別にスポーツでもなければ創作の話でもないので、この意見がそもそも的外れだってことは重々承知なんですが、どうも有象無象の愚衆が一である自分には、愚衆の愚衆たる愚衆性をあけっぴろげにしているようで居た堪れなくなる。勝手に居た堪れなくなってろ、という話ですが。

 

多分だけど、カトリーヌの発言というのはそのへんの女性としての部分よりも人間性の美醜として、あまりに便乗する女性が多いことに苦言を呈したかったんじゃないかなーと思うのですよね。それとも、そういう権力の傘の下にいたから、なのか。

 

ま、所詮はただの傍観者でしかない卑怯者の戯言ではありますが、こういう小癪な意見を持ったパンピーもいるということ事実をネットの世界の片隅にちょこんと残しておくくらいのことはしてもバチは当たるめぇと思ったので。

 

www.buzzfeed.com

 

ちなみにざっと参照した記事をいくつか上げておきますん。

4つ目の記事にある「ぼくのりりっくのぼうよみ」氏に関しては伊藤計劃トリビュート関連であまり良い印象を持っていないので、たとえそれが正論であろうとなんだろうと「でもお前は伊藤計劃のこと大して好きじゃないだろ」みたいなやっかみを抱いてしまう。そんなわたしはダメ人間。

 

すごいどうでもいいんだけれど、もしもセクハラをしたのが黄色人種や黒人で、被害を受けた人が実は人種差別主義者だと後から判明したりしたら、世間の人たちはどう反応するんだろうか。

 異なる正義のぶつけ合いとして「それはそれ、これはこれ」という風になるのだろうけど、 その論法はわたしの「ダサい」論にも使えませんかね? あ、使えないですか。そうですか。

思考の汚染

 

ハイパー資本主義は宗教改革にはじまる:「GDPR:データとインターネット〜EUが描く未来」第3回|WIRED.jp

そういえば、イーガンの短編にも似たようなのがあったっけ。

物理的な距離によって(それだけじゃないけど)思考が染まっていくというのはおもしろいよなぁと思いつつ、この記事に書かれていることが結構怖い。

 

 

 

結局、世の中を変えることはできるのか

事実は小説よりも奇なり。ほとんどフィクショナルな物語と呼べるほどに過酷で残酷で、それゆえにその中に光明を見出すという、映画顔負けの事実だった。

NHKの「時間が止まった私 えん罪が奪った7352日 」番組を見ていて、やっぱり映画とか小説とか、そういうものじゃ社会を変えることなんてできないんだろうかと思ったわけである。そんなものは当たり前だろうが、と冷ややかな視線を向けてくる自分ももちろん以前からいたんですけれど、この番組を見てその思いというか諦観みたいなものを乗せた方の秤が傾き始めた。

SFなんてあれだけわかりやすく警句としての未来を描いているのに、そっちの世界に向かいつつあるんじゃないかと思ったりもするわけで。

 なんてことを「ショーシャンク~」を観たあとの今のわたしにとっては、ブルックスの最期を観てしまった今のわたしにとっては、青木さん・・・というか現状の社会システムに対する疑念はもはや義憤に近い。

 

ちなみに番組の概要は↓こんな感じ

20年以上にわたり社会から隔絶されていた女性が、再び社会に放り出されたとき、どんなことに直面するのか、あなたは、想像することができるだろうか。
8歳だった息子は29歳になっていた。60代だった両親は、80歳を過ぎ、介護を必要としていた。そして自分自身も31歳から51歳になっていた。20年前には、インターネットも携帯電話も普及していなかった。家電の使い方もわからない、別世界からタイムスリップをしてきた感覚に襲われ、彼女はとうとう、こうつぶやく。「刑務所に戻りたい・・・」。
これはすべて、大阪に住む、青木惠子さんの身に起こったことである。青木さんは、娘殺しの母親という汚名を着せられていた。1995年、小学6年生だった娘を、夫と共謀し保険金目的で焼死させた疑いで、無期懲役を受けたのである。受刑しながら、裁判のやり直しを訴え、ついに、2016年、えん罪が証明され、無罪判決が下されたのだった。
これは、20年という途方もない長い時間の中で失ったものを少しでも取り戻そうとする、ひとりの女性の再生の物語である。

  

この説明文だけでも結構キツイものがあるんですけれど、本編はもっと壮絶なことが起こる。で、今回のエントリーではそこにも触れていくので、ネタバレ(?)回避したい人は21日の再放送まで待たれるといいかもしれんです。

 

さて、この番組に関して色々と思うところがあったわけですが、やはりひとつには「冤罪」というテーマ以上に、その「冤罪」という状況に巻き込まれた青木さん個人のケースがあまりに残酷すぎることはあるでしょう。

青木さんの場合は「冤罪によって投獄」されただけでなく、偶発的な事故でしかなかった(少なくとも法律上は)愛娘の死の責任を負わされてしまいました。これは他者の死や傷を不当に背負わされるよりも辛いことであるはずです。なにせ、自分の知らないうちに死んでしまった娘を悼むことすらできず、ただただ警察の事情聴取という名の恐喝(青木さんの手記によると、内縁の夫が娘に性的虐待を行っていたことを告げられ、女として見られていなかったのではないかと言われた、とありました)に怯えるしかなく、あまつさえやってもいないことを認めなくてはならない悔しさに苛まれなければならなかったのですから。

わたしのような人間が青木さんの胸中を推し量ることなどできませんし、誰ひとりとして知る人のいない寄すがなき密室で国家権力に恫喝されるということは、想像するだけで身がすくみますし、本当にやっていなかったとしてもその状況から脱したいがために首を縦に振るという心理は理解できます。

 

しかし、もっとも深刻だったのはむしろ無罪を勝ち取ったあとの、番組のカメラが収めていた部分です。

急速に進歩するテクノロジーを知らずに格子の内側にいた青木さんは、携帯もインターネットも使いこなすことはできず、この経験から人間不信に陥り・20年を社会から隔絶された場所で過ごしたがゆえに対人の仕事が困難であることから、早朝のポストインの仕事をしている。

そして、31歳のまま停止した感覚は、彼女の着るものをその停止した感覚相応の服装に仕立て上げる。50歳をこえた女性が身を包むに服としては、いささか派手にも見受けられる。これに関しては、そもそも「年相応」という固定観念なる幻想を大衆があまりに考えなしに受容しているという問題もあると思うのですが。

 あるいは、死んでしまった娘の代わりと言わんばかりに(というか青木さん本人が言ってるんだけど)、彼女の好きだったとうもろこしを食べたり好きだった黄色が好きになったりと、もはや呪いとしか形容できない代替行為。もしも最初から事故としてこの件が扱われていたらどうなったのだろうと思わずにはいられない。

 

けれど、これはまだ彼女個人と社会の問題でしかない。

このあとの、青木さんの家族との関係が更に衝撃的なものだった。幼少期から青年期までの人間形成に重要な20年を接することができなかった息子とのコミュニケーションの拙さ、80を越えて助けを必要とする両親との諍いから一人暮らしをしなければならない孤独。娘を信じることができず面会にも行かなかった両親との軋轢は、そう簡単に埋まるものではないでしょう。

青木さんだけでなく、彼女を取り巻く、彼女を取り巻いていた環境が歳月と誤謬によって歪に捻じ曲げられてしまったわけです。

 

そんなある日、認知症の母親が家を出ていってしまい、青木さんの息子とその嫁も含めて家族総出で探すことになるのですが・・・。

なんというか、フィクションでないからこそなのでしょうが、青木さんの母は川に流されて遺体で発見されてしまうのです。

ただ、その母を捜す間だけは、青木さんの一家は一丸となっていた部分は確かにありました。「母を捜す」という目的に向かって。この辺で、やや感動げ(一概には言えないのですが)なBGMが番組の演出として流れるのですが、かならずしも喜ばしいことではないというような抑えたBGMは良かったと思います。これを変に感動BGMで装飾しようものなら、それこそ感動ポルノの軛に落とし込むことになりますから。

身内がいなくならなければまともに集まることもない瓦解した家族。母親の犠牲によって、幾らかのきっかけを手にしたものの、この先がどうなるかはわかりません。

 

そんなものは青木さん本人が決めることとはわかっていつつも、彼女が死ぬまでの残り数十年の人生は、わたしにとっては煉獄とも思えるのです。

社会によって追い込まれ社会に適応できず延々と彷徨うことしかできない人生に、どう向き合っていくのか。 

 これをレアケースと割り切って、そのまま何も変わることなく現行社会は存続していくのか。

最近の例として取り上げますが、座間の殺人事件に関する評論家の人の意見があった。

「座間の殺人事件のような例は本当に極めてレアケースであって、だからこそここまでニュースとして取り上げられているのであって、現在のSNSの状況が悪いというわけではなく規制を進めるというのは単純である」というようなことを言っていた。

それはそうだ。自分も、それには同意見だ。けれど、果たして同じことを座間の事件で殺された人たちの前で、その遺族の前で、あるいは青木さんの目の前で言えるのだろうか。

この評論家の言っていることはマクロな視点だ。その視点を持つことは、社会を語る上で必要なことだし、メディアに出る以上は必要以上に個人に肩入れすることもできないのだろう。

だからこそ、わたしのような一介の個人は疑義を呈する必要があるんじゃないか、と思うわけです。「それでいいのか」と。

もちろん、どんなに社会をよくしようとしたところで、その中で犠牲になる人はでてくるし、それを一々すくいあげていたらキリがない。それこそ、SFにおけるユートピアディストピアのように一人一人を完全に統御できるような世界でなければそういった個々の犠牲をなくすことはできないだろう。もっとも、そんな世界で個人が個人として生きていく意味があるのかという、二律背反はあるのだけれど。

でも、だからこそわたしたちは考え続ける必要があるんじゃなかろうか。 

 

 

 

さて、冤罪といえば国内でこれまで冤罪が認められたケースは青木さんを含めて9件だけなそうな(もしかしたら間違えているかもしれないので、再放送の時に確かめてみますが)。手元に有る資料では「弘前大学教授夫人殺し事件」「加藤老(これに関しては後述)」「免田事件」「財田川事件」「松山事件」「徳島ラジオ商殺し事件」「島田事件」「足利事件」の8件が載っていて、最後の「足利事件」の再審による無罪判決が出たのが2010年のことだから、多分青木さんのケースをいれて9件というのは間違いなのだろうけれど。そう考えると、確かに死刑制度の賛否に対する議論になるということもわかります。私自身は、どちらかといえば死刑制度に賛成(といっても、生まれた時からそれが当然だったから、という程度のものでしかないので、恐ろしいほどに薄弱な賛意ではあるので、そのときどきによってどちらにもブレますが)ですが、罪もない人を国が殺す可能性があるということですし。

ちなみに、上記に挙げた事件のうちで「免田事件」「財田川事件」「松山事件」「島田事件」の4件では死刑判決が下されている。つまり、もしかするとこの4人は死んでいたかもしれないわけです、無実の罪で。

さらにいえば、これは再審が認められて(これ自体がかなり困難らしい)その上で無罪判決を勝ち取らなければいけないわけで、そう言われると極刑を考えなしに肯定することはできないですよねぇ。

そんなものは端数だから、というのは既述のとおりメディアに出るような人たちの考えであるわけで、わたしのような個人はそういうひとつひとつのケースを大切に見据えてあげないといけないんですから。

また、気になったのは息子との面会はできなかったのかということ。20年ぶりに再会したというナレーションのニュアンスや青山さんの話から服役中に面会していないような口ぶりでしたし。あれは、やっぱり親戚が止めていたのだろうか。そのくせ息子に暴力をふるっていたというのだから、よくわからない。

 

で、冤罪については、痴漢冤罪を例に挙げる前にもっと大きな事例があったりするのだけれど、上述した「加藤老事件」が個人的には印象に残っているんだけれど、これって日本史とかでやるんだろうか。わたしは 高校時代の政治経済の授業で扱って、先生が話してくれたことを覚えているのでこうして例に挙げることができるのだけれど。

単純な年月という部分で見れば、この「加藤老事件」は青木さんのケースよりも甚大で、加藤さんは24歳から86歳までの62年間を無実の罪で服役していた。妻は去り、父親の死を獄中で知り、娘の結婚生活も父親の冤罪ゆえに破綻した。

と。こんなものを知って、どうして個人に肩入れせずにいられるだろうか。

 

とはいえ、この考えが行き過ぎると今度は大流を見失うことになるわけです。ひとつ言えることは、マクロにせよミクロにせよ、視野狭窄に陥らないようにしなければならないような考え方をしなければならないということでっしゃろか。

 

ジューダイって何よ

問題定期することによって別の問題か顕在化するんだなぁと思った。

あと定義のポップ化とでも呼びたくなるような、なんというかこう、意味の空洞化というかなんというか。

 

こう、思考がとりとめなくて放置している間に何を考えていたかわからなくなってきた。

勝手に共感

面白そうな記事見つけたので読んでみた。

自分の言いたいことを両名がまんま言っていて笑ってしまったのですが、ほかの読者的にはどうなんだろうこれ。特に2ページ目。

AIの遺電子は1巻だけさらっと読んだけどそこまでハマらなかったんだよなー。なんかこうテレビ版のサザエさんを漫画として読まされているような気がして。原作のサザエさんはテレビみたいな感じじゃなくてもっと激物だった記憶がある。

こういうのをテレビでながら見するぶんにはいいんだけど(受動だから)、漫画となると能動的に読み進めないといけないから煉獄感があるというか、そういう感じであまり気力が湧いてこないというか。絵柄も結構無機質だし。

ただまあ、押井守が好きだというのはなんとなくわかる。何もしなくていいからっつってフォールアウトを延々とやり続ける人だし。

いや、そこまで押井守に関しては追っかけているわけではないし伊藤の中に出てくる余剰みたいなもので流れの中で少し知った程度ではあるんだけど、その伊藤フィルターを通して見た押井守は好きそうだなというのはわかるという話で。なんか言い訳がましいこと書いてますが、言い訳ですからねこれ。

 どうでもよくないことではあるんですけど、なんかこうクリエイターってマスで世間を語るきらいがあるような気がする。そりゃまあ読ませる物であるからにはわかりやすくしなきゃいけないんだろうけど。

 

山田:僕らはAIが「聞き分けの良い優秀な人間もどき」みたいものになるんだろうって思いがちなんですが、でもそうじゃない、人間臭くない未知の知性になる可能性もあって、怖くもあるけど、そいつに出会ってみたいっていうのが個人的にはあるんです。

 

とまあ抜粋してみたけど、そもそもAIを「聞き分けの良い優秀な人間もどき」と考える人ってそんないないでしょう。そりゃアイアンマンを見て「フライデー萌え」とか思ったりするけれど、それは要するに単純に戯画化された属性を楽しんでいるわけであって、そうなるとは思っていないでしょう。

たぶん、わたしが「AIの遺電子」を読んでそこまでハマらなかったのは、自分にとってすごく当たり前のことを当たり前にフラットに描いていたからなのだろうと。もちろん、それを話としてハイクオリティの一話完結に落とし込むことは卓抜した能力ではあるのだけれど。

まあでも実際は自分や山田氏のように考えてる人は、それこそ山田氏の考えているように少数で、実際のところはAIがどうのこうのなんていうことを考えている人は話のつまにしてはいても真面目に論考する人はいないんだろうなーとは思う。

だって、大多数の人は自分のように半ば無職で時間を持て余して本を読んだりNHKを見たりすることもなければ山田氏のように関心自体を職業にしているわけではなく、一日一日の仕事をして生活することだけでも大変なのに、そこに来て「人間がどうのこうの」なんて頭脳労働をしたい人はよほどのもの好きなわけで。

だからこそ、カジュアルにそれを描いた「AIの遺電子」はウケているんだろうけれど、現代のブラックジャック(だっけ?忘れたけど)みたいに呼ばれるには少し方向性が異なっているような気がするぞよ。売り文句としては一見、最適に思えるけど、ブラックジャックはむしろフラットに毒気を仕込んでくるところに妙味があるんだから、とNHK手塚治虫のドキュメンタリーを見て思った。

 

今更過ぎる振り返り

そんなわけで、半ばドキュメンタリーの感想を書くブログになってきていることを危惧しつつ、別にそうなっても問題がないという体のブログであるような気がしてくる。

Eテレの「亜由未が教えてくれたこと」の再放送を観ていて、まあ番組の構成とか話そのものに思うところがあって書き残しておこうと思った次第です。

あらすじとか内容については一々振り返ることはしないし、知りたい人用にリンクを貼っておく。

「亜由未が教えてくれたこと」坂川智恵さんインタビュー 第1回「障害者の家族は不幸」という言葉 | 福祉の潮流 | ハートネットTVブログ:NHK

 

この番組の冒頭では「相模原障害者施設殺傷事件」に触れられ、この番組のディレクターの妹である亜由未という肢体不自由(右手と首しか動かない)と知的障害のある心身障害者の介護を題材にしたものなのですが、まあなんというか事件のことにはもうちょっと最後に触れておくべきだったのではないかと思ったりする。

というのも、社会的にもインパクトの大きいデリケートな問題を坂川一家の問題にしてしまっているからだ。

ほとんどが彼らの家のような感覚なのだろうが、中にはもっと疲弊し絶望している人もいるはずで、「京都認知症母殺害心中未遂事件」のような結末を迎える可能性だって少なくないはずなのだから。あれの事件の、あまりに悲しい顛末が報道されたのも去年でしたか。

我が家にもアルツハイマー認知症の血縁者がいるわけだが、わたしが取っている対応としては基本的にどっちつかずというかヘルパーさんに完全に任せているので、たまに夜に叫んだりしたりすることを除けばそこまで気になったりはしない(というと嘘になるけれど)。この方法はもちろん坂川一家のような団欒で悩みを抱える真正面から相手をしないことで「京都~」の事件のようになる危険性を徹底的に排除しているわけだけれど、それ以上の進展が望めるわけでもない。

とまあ、そんなことは実は今回書きたい事ではない。そんなものは、それぞれの家庭で異なってくるわけだし、番組中で坂川智恵氏が言っていたことが自分の考えとほとんど一緒だし。

どちらかというと、この番組のきっかけとなる「相模原~」事件のほうのことを考えたい。というか、事件発生したあたりでさんざ語り尽くされたとは思うのだけれど、自分の中で言葉にしておく必要はあるだろうし、それだけの価値のある問題だ。

とはいえ、これから書く事はわざわざ書くほどのことでもない、誰もがわかっているごくごく一般的な倫理と正義の話でしかない。

 

事件のウィキを一通り読んでみたけれど、彼は正義感の強い男だった。おそらくは学生時代に学友を殴って転校したというのも、何かしら自分の正義に反することがあったからだろう。

さて、この短文の中で出てくる「正義感」というものが非常に厄介であり、正義とは名ばかりにその実はエゴイズムであり置き換えたところで何一つ違和感はない。

そして、この正義というやつは施設側が言ったとおり「ナチス・ドイツの考え方」と同じだ。つまり、世界をよりよくしようと当人たちが本気で思っているという点で、そして誰かを排斥することで・弱者をまびくことでより良くなると信じていた点で共通する。

人の尺度なんてものは人によって異なるわけで、幸せかどうかということだって結局はその人次第であるわけで。

人の幸せを自分の尺度で図ることをなんというか。それはレイシズムという。

だが、よく考えてみて欲しい。事件に関してはあきらかに度が過ぎていたとはいえ、我々の中にそのような思考プロセスがないと言い切れるだろうか。小さな親切大きなお世話という言葉は、つまりそういうことではないのだろうか。

こんな考え方ばかりをしていると、どんどん自分の首を絞めることになるわけだけれど、だからといって自分の醜悪な内面から目をそらすには、この事件は磁力が大きすぎるのだ。

人為による事件とは、つまり我々の社会の表裏であり合わせ鏡の構造であるということを夢々忘れてはならないのだと、事件から一年以上が経過した今になって思うのだった。

 

 

 

 

懲りもせずドキュメンタリーを見る

ミラーリングという言葉がある。

ここでいうのはpc用語のほうではなくコミュニケーション手法のほうで、ウィッキー曰く「相手の動作に対して、まるで鏡のように自分の動作も合わせる方法のこと。」とある。

はからずも、これは自分という個が外界・・・つーか内界含めた世界全体に対するあり方を示しているように思う。

 

わたしは地球儀を向けられて「ミャンマーがどこにあるかわかる?」と言われたら答えられない。アジアの国という漠然としすぎていることはわかるけれど、それ以上のことは何も知らない。曲がりなりにも最高学府を出ているにもかかわらず。そうして調べてみると、一番上にWikipediaが出てきて、ビルマ語が対応していない機種がほとんであるという事実を知る。そもそもビルマ語というものを初めて知る。

ミャンマーでは25%の子どもが学校に通えない「らしい」。テレビ画面に映っていたのはレンガを数える仕事をする少年だった。彼の名前は「テッ」という。この世に「っ」という促音で終わる名前があることを知らなかった。かといって、驚きがあったわけではない。一種の諦念(という名の自己欺瞞)で予防線を張っているため、世界に対する向き合い方もそれに相応しいものなのです。だから身体性の伴わない情報に対して大きなリアクションをすることができない。というか、しないようにいつごろからか自己形成を始めていた。たぶん、高校時代のあまりに外界への無頓着の反省でもあるのだろうとは思う。それを否定するつもりはないし、ごく平凡な高校生活以上のものではなかったのだけれど。

レンガを数える仕事で思い出したが、そういえばほんのページをひたすら数えるだけの見た目は少年・実年齢は青年の輩がいましたっけ、フィクションだけど。当初は「そんな楽で苦痛な仕事があるかいな」と思っていたけれど、テッの仕事を見たあとではあながちありえないものでもないのかもしれないと思ったり。

そういう、彼やミャンマーに暮らす人にとっては当たり前のことも、自分は知らない。そういう世界があることを知らない。

無知をひけらかすようですが、都道府県も全部言えない自信がある。そんな常識すら答えられないのである。

でも、じゃあ常識って何だろうか。「常識的に考えて」「常識問題」って慣用句みたいに使われているけど、常識って何。それを規定する具体的な境界線はああるのだろうか。義務教育で教わったこと、と線引きできないこともないけれど、実際は高等教育を受けていることが前提の社会であるから高校生レベルの知識は必要だ。じゃあ高校生レベルの知識ってなんだ。そもそも、文理選択によって分化するだろうし学校やそれこそ偏差値によって個々の知識も変わってくる。というか、常識がイコールで知識なのかという疑義を呈してみることもできるし、考え出すとキリがない気がする。一番それっぽいのは、全体の平均とかそんなところだろうか。

 

こんな益体のないことをグダグダと書き付けておきながら、別に常識についてこれ以上何かをどうしようというつもりはなかったりする。(というか書いているうちに何が書きたかったのかわからなくなったり書きたいことが右往左往してまとまりがなくなったりする)

ただ単に、どれだけ世界が広大無辺なものであったとしても、自分が知っていること以上のことはないということだ。

無知は罪だ、と言う人がいる。そういう人は、主にそういうことを言えるだけの余裕を持った人で、基本的には我々のように安寧を貪る側の人間に近い。しかし、どうして知らないことが罪なのだろうか。それはたぶん、今どこかで起こっている悲劇(一秒間に何人が死んでいるだとか何パーセントが教育を受けられないだとかそういう現実だ)を知らずにのうのうと平和に生きていることを咎めているのだろう。もっといえば、そういう現実を知ってしまった彼らは、世界・現実に対して誠実であろうとするがあまり「知らなかった」状態に戻ることができなくなり、それを知るまでは「非日常」だった世界を自らの「日常」とすることでしか世界に向き合えなかった人々なのではないかと思う。そして、非日常を日常化してしまった彼らはそれ以前の彼ら自身=無知な人々を嫌悪とまではいかずとも、無責任な奴輩だと批判的な目を向けているのではないだろうか。

もっとも、それは少子化社会の中で義憤に燃える母親のようなものなのかもしれない。少子化という今ある現実に対し、子を宿し出産するということはそれ自体が現実への誠実なアプローチであり、子供を産めばそれ以前には戻れないんだもの。子供を生んだ以上は育てる義務があるのだから。同じように、現実を知った以上はその現実に対する責任が生じる。と、誠実な彼らは思っているのだろう。そして、世界をよりよくするために子を産めと、世界を知ってその責任を負えと要請してくるのだ。

大半の人は、戦争や孤児や難民や色々な悲惨な話を聴いてその場で何か思うことがあっても、次の日にはあるいは次の瞬間にはそれまでの日常に回帰してしまっている。わたしだって、こうして日常に戻ってきているわけだし。もちろん、少なからず現実に思うところがあって、誠実に向き合えないまでも不実ではいないようにとこうやってブログに綴っているわけではあるけれど、だからといってテッを救うために具体的な行動を移そうとは思わないだろう。本を読んだりドキュメンタリーを積極的に見たりする要因にはなるだろうけど。

そういえば、大学の同期に一留して海外にボランティアに行った人がいたっけ。彼女が今どうなったかは知らないけれど、普通に就活していたということは後輩から聞いた記憶がある。

彼女もまた、誠実であろうとして行動に起こしたのだろうか。

 

 

だけどわたしは、身体性を伴わない情報をフィクションとして捉えるようになってしまっている。というか、ほとんどの人はそうじゃないだろうか。どれだけテレビで悲惨な事件や事故を目にしても耳にしても、話のタネにする以上の何かをしようとする人は多くないはずだ。それが、たとえ3.11であったとしてもだ。

はっきり言おう。3.11のときに逃げ惑う避難民や異常をきたした原発を目の当たりにしても、放射能汚染云々と世間が騒いでいる(ように見える)中でも、わたしはほとんど無関心だった。なぜなら、それらの情報すべてに「わたしの身体性」は介在する余地がなかったからだ。もちろん同情の念を抱いたりはしたし、不安に駆られることもあった。だからといって、何か具体的に行動に起こしたかといえば、そんなことはない。

だって、身体性の伴わない事象なんてものは結局のところ他人事でしかないのだもの。それはほとんどのクリエイターにとっても、そうであると思う。いや、もちろん何かしらを創作するという行為によって現実に誠実に向き合っていることはたしかなんだけれど、当事者ではない彼らの創作行為は現実に真正面に向き合ってはいるけれど間接的でしかないんじゃなかろうか。逆説的にいえば、当事者であるクリエイターたちは直接的に現実に向き合うために間接的な手法を選択したということであって、それは多分直接的に現実に対処するよりも現実的な手段なのだろうけれど。皮肉なことに。

 

だから、テッの現実を知ってもわたしはこうしてブログをダラダラと綴るだけのことしかやらないしできない。

そんな精神性しか持ち合わせていない。心の構造が物理的に解き明かされつつある今、心すらも身体性の中に取り込まれているのではないかという気がしてならない。そうなると、身体性の欠如した世界との接触なんてものはやはり接触と呼ぶにはあまりに希薄すぎやしないだろうか。なんていうのは、あまりに自己擁護が過ぎるかな。

まあ、これが自分なりの正直さではあるのだけれど。

 

何が言いたいかってーと、ほとんどの人はその現実の当事者でもないかぎり世界へのリアクションは希薄なものになるんじゃないかな。

まあ作用反作用の法則じゃないけど、自分にとって現実の作用が大きくないとその反作用としての世界への働きかけというものは同等以下なものがほとんどなんじゃないかと。

現実からの作用に対する個々の反作用量というのは、その人が培ってきたものに依拠しているんじゃないか、と。

 

んなこと長々とまとまりない文章を垂れ流すまでもなく自明ですが。まあ、だから雑ソウなのですが。

 言いたいことがまとまらなくて散漫になっている上に、下書きしたまま一向に記事にするための最低限の体裁すら整えられないものがどんどん溜まっていくのも結構つらいんで、こうしてどうにか吐き出していかないと逆流しかねないし。 

 

 

毛ほども関係ないのですが、ミラーリングと打ち込もうとして誤って「ミラーリヌ」という存在しない(どっかの地域のどっかの国では何かしら、それこそ神とかって意味を担っている可能性もあるし誰かの名前だったりすかもしれない)言葉をタイピングしてしまった。なんだか意味ありげで意味がない(少なくともヤフー検索では引っかからない)というのが、なんだか可笑しい。