dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

怒りはどこかにあると思うのですが

あるラジオだったりEテレなんかを見ていて、いつも妙にモヤモヤした気持ちを抱くことが多かった。

それはたとえば、いわゆる「生きづらさ」を抱えている人を取り上げたりするもので、基本的には優しさや思いやりや気づきみたいなもので溢れている。少なくとも見ている限りでは。

とくにEテレなんかだとリアルタイムでSNSの意見を「拾い上げ」ていたりあらかじめ意見を募ったりしているわけで、視聴者の意見を反映しているように見える。

んが、メディアというやつはその性質上、どうしたって100の情報を100のまま提供することはできない。だからメディア(媒介)であるともいえるのだけれど、しかしそれはノームが指摘するような時間的制限とかの構造的な部分よりも、メディアの恣意性によって欠落がもたらされている気がしてならないのだ。

 

とくに、Eテレで当事者()をスタジオに招いたり有識者を呼ぶような番組では、当事者の辛さや悲しみの声といった悲痛さや憐憫を誘う感情は取り上げられても、強烈な憤怒(その矛先はともかく)や罵詈雑言とまではいかずとも他者を不快にするような感情の発露たる舌鋒であったりといった、健常者とされる我々のコミュニティであれば常日頃から目にするような(メディアを通してさえ伝わる)悪罵は「生きづらさ」を抱える人からは受け取れない。それは私が目を向けていないからだ、という人もいるだろう。

だが、健常者間では意識するまでもなく浮上してくるそれらの怒りに類する感情を、意識して見なければならないという時点ですでにからしてこの社会が差別的な構造を含んでいるといえる。もちろん、障害や生きづらさの類によってはそもそもそれを発するということ自体が困難なケースもあるだろうし、マジョリティである(でしかない)我々健常者がその量でもって覆い隠してしまっているかもしれない。

 

しかし、意識的に取り上げているはずのメディアでさえそれらの嫌悪や憤怒の場を奪い去るというのは、洗浄に近いのではないか。

 

身内の話になるが、夕飯を作ってあげても気に入らないと捨てたり、あるいは「畜生、畜生」と怨嗟の声を上げることも多々ある。

 

何が言いたいのかというと、メディアに登場することができる人(それが障害者であれ健常者であれ)というのは、その時点で選別された上でメディア側の基準を満たした優等生であるのだ。

優等生は、感情そのままを発露することなくオブラートでもって包み込んで「表現」することができる人なのだ。だから、死ぬほど憎くても「死ね」とは言わない。

そもそもメディアというものが「表現」の力学によって構築されているために、ストレートにストレートな感情や思いをぶちまけるのに向いていないのかもしれない。

 

が、アイドルはうんちしても付き合ってもファンを食っても許容されるのであれば、いい加減に障害者や子どもを非人間化するのはやめたらいいのに、と思う。

でもあそこは嫌いなんですよ

基本的には肯定的だし好きなんだけど、一点だけ「万引き家族」の中で嫌いなところがある。

それは池松壮亮だ。いや、池松壮亮が嫌いなわけではなく、あそこであの役に池松壮亮をキャスティングするということが嫌いなのだ。

「隅から隅まで配慮してますよ。こんな端役にも演技達者の俳優をキャスティングしていますよ」という映画作りにおける姿勢の徹頭徹尾正しい有様が鼻につくのだ。

あそこはこの映画の中でもワンオブザモストなエモーショナルシーンであるわけで、そこで「演技達者な池松壮亮」というのが配置されると打算というか計算の匂いを嗅ぎとってしまうわけですよ。正当さの担保のために当事者性を薄めてしまっているというか。じゃあ全員が全員、本当に貧困である人をキャスティングすればいいのかというとそういうわけではないし。考えれば考えるほど厄介な問題ではある。

しかしこれははっきりいってあっちを立てれば向こうは立たず的な二律背反なわけでして、難しい問題ではあると思う。

 

と、ここ数週間悩んでいたことを軽く排泄してみた。

漂白熱

BLEACHの画集が出るということで、連載終了以来ほとんど触れる機会がなかったし、最終章の出来がアレなだけに完結してから単行本を全部売り払ったり(スペース確保のため)とほぼ決別していた(ブレソルはたまにやってたりはしたけど)はずだったのにまた熱が少し再燃してきた。

なんやかんやで直撃だったしなーと振り返る。

で、その流れで色々ググってたら成田良悟のノベライズが出てきたので買って読んだんですが、なんかアレですね。

こういう意地の悪い書き方するのもはばかられるんですけど、いかにも二次創作的なんですよね。台詞回しとかも、いかにも説明的だったりするし。よく揶揄される能力の説明は、それ自体が説明なのでまだいいのですが、説明的な台詞というのはちょっとね。展開誘導のためにそのキャラクターが口にしなさそうな台詞を言わせているような部分も散見できるのよね。京楽は多分、一護クンなんて連呼しないで「彼」とかで呼ぶだろうし、檜佐木は花太郎のこと花太郎とは呼ばないだろう(メタ的に言えば花太郎は「花太郎」と劇中およびBLEACHファンの間では呼称が定着している流れなのだろうけど)し。いや、もしかしたらそう呼んでいるのがどっかであったりするのだろうか。カラブリとか久保帯人が直接書いたものは大体網羅しているはずだけど、まあ完全把握しているわけでもないのであんま強くは言えないけど。まあ同僚を苗字で呼んでいるのに大して接点のない相対的な地位の低い花太郎を花太郎呼びするのは不自然だよね、どう考えても。

あと劇中で使ったセリフをそのまま使うというのも、凄まじい二次創作感があってなんというか痛い。京楽の口癖はまだわかるんですが、平子の「母ちゃんの子宮~」は別に口癖じゃないし、愛染に対する嫌味というかジョークみたいなものだし、それを檜佐木に対して言うのは意味不明ですよねぇ。

マユリの語尾の「ヨ」「ネ」の付け方もなんか「語尾だから」という付け方程度でしかない気ががが。

まあそういうキャラ小説としての残念な部分を除いたとしても、地の文もさ、一人称の心中部分以外で「こちら」とか使うのってどう考えてもおかしくないでしょうか。

あと絵なしで久保帯人のギャグを再現しようとするのはかなり小っ恥ずかしいので控えたほうがいいと思う・・・。

彦禰を男にも女にも見える子どもって表記のあとに地の文で少年と書いたのもよくわからない。そこ言い切っちゃっていいのか。あと十五歳前後って、連載開始時の一護とほぼ同い年だと記憶していますが、それに比べるとはかなり幼いデザインですが連携は取れているのか成田と久保は。

まあ有り余る設定を拾ってリユースするのは上手いと思いますし、決してつまらないというわけでもないし読みやすくはあるのでBLEACH好きな人は読んでいいかもね。ていうか好きな人以外はそもそも読まないんだけど。

あとまだ続きが出てないのでなんとも言えないんだけど、本当に成田ってイザヤみたいなキャラクター好きね。あれ、個人的には結構イタい気がするんだけど、BLEACHファンはどう思ってるんだろう。

 

しかしこうやって書いてみるといかに自分がBLEACHに対する思いがあったのかということを思い知る。

いや、割とダメなとこも多いしネットで指摘されるような部分もそのとおりというとこもなくもないんですが、BLEACHがけなされるとそれが正論であっても愛のないものだとイラっとくる程度には愛憎があるということらしい。

 

読書感想に書くまでもないのでこっちに書いたんですが、思いのほか長くなってしまいましたな。

もやもやする

なにかこう・・・嫌悪感がある。

何でもかんでも包摂してこようとする世界的な動向と、そのサブシステムの一つであるコンテンツ周りの動きに。これは「社会的なテーマを扱っているのだ」とか、自分の弱さを認めてもらおうとする自分ルポみたいなまんがとか、社会問題の二次創作じみたことを描くまんが(両方とも主にウェブ掲載のものばかり)とかが増えている気がする。

 

けれど、そういうものって往々にして漫画としてはどうかという部分がなんだか無視されがちな気がするのである。

名前は出しませんが、ある作品を読んでいて思ったり。

だいたい「外国を背景」ってふわふわしてんなオイ。外国って言っておきながら人物の名前意外が全部完全に日本的な描写なのはなんなの。なにその都合のいい部分だけローカライズする魂胆。そんなのだったらまだ一昔前の(今もだけど)洋画におけるへんてこ日本描写の方が愛嬌あるっつーの。

ていうか、扱っているテーマは重そうだけど描きかたは「なろう」系と変わらない。理想を押し付けられただけのキャラクターだから人間性ないし、基本的にクリシェだし。要するに世界が無条件で主人公に傅いているアレ。いやそれまったく考えてないよ。普通はそれ咎める部分でしょ。まあ身近な人間より自分を知らない人間の方が素直に話せるというのはかなり理解できる部分ではありますがね、本来は親がなすべき部分を代替として別の都合のいいキャラ(それが揃いも揃って女というのも、いかにも理想化された女性像という感じで)。そのくせ都合のいいときだけ母親を引っ張り出してくるのも寒気がする。

ていうか、この主人公完全にサイコパスでしょ。自分の目的の達成のために自分の愛嬌という武器を(無意識にせよ)使って他者を懐柔し、あるいは欺いているわけだし。それを純粋無垢として描いているというのは、はっきり言ってサイコホラーの系譜でしょ。それをわかって描いているのだったら天才だと思うけど。

男性の臭気をほぼ完全に脱臭しているのも、問題提起すらさせないようにしか思えない。

イライラする理由としてはほかにも話の都合上でキャラクターが最適解を避けるように行動しているから全然話が進まない上に、基本的にやっていることも描いている手法も別のキャラクターを使っているだけで同じだから、同じ問題を延々と同じ手法で眺めているだけだから、というのもある。

それぞれのキャラクターは世代や境遇こそ違うけど女性だし、最終的には主人公を称揚する装置に落ち着くし。

まあ連載中だし何とも言えない部分はあるけど、まさかハッピーバースデーエンドじゃあるまいな。あと どうでもいいけどlolって文語表現じゃないの…?

 作品自体はアレだったけど「アンダー・ハー・マウス」でエイプリル・マレン監督が言っていたことはかなり重要な指摘ではあったわけだけれど、そういうのを欠いているのが多すぎる。だいたいね、NHKハートネットTVにしたって見る人から見ると「は?」となる部分だってあるわけですしお寿司。

 

 

社会問題を提起したように見せかけてその実、中身は思考実験的なものでもなく「なろう」なものだったり、自分の弱さを切り売りするだけだったり、というものには本当に辟易する。や、それをインディでやるならわかるというか、極めて個人的なものとして綴るのであればわかるのですが商業ベースになるというのがよくわからない。

 

そういうのを全部ひっくるめて、なんというか巨大化した綾波に人間という存在をてごめにされてしまった感じがあるのでせう。いや、人間ていうか、弱者だろうか。

弱者を救済(この言い方がすでにからして階級的物言いだけど)しようとするのは賛成だし現実においてはじゃんじゃんやるべきだ。

けれど、何か居心地の悪さを覚える。それはわたしの精神性が陰気なオタクよりであることが大きいのだろうけど、すべてを包み込んでこようとする潮流が嫌いだ。

体制側がロックやパンクに「いいですね~」と拍手喝采を送るような気持ち悪さというか。

ていうか単純に「レリゴーする自分」をそのまま描けば表現として通じてしまうような昨今の流れがキモイ。「シザーハンズ」くらい自己嫌悪と自虐と自己愛をごちゃごちゃにしてハッピーでもないくらいに帰着する二律背反や葛藤を描いてこそ表現でしょうが。

 

そもそも義務的で欺瞞的な正義や慈愛を振りかざしてるようにしか思えないんだっつーの。人なんて好き嫌いがあって当然なわけで、それを欺瞞でラッピングしちゃってどーするのよ。

「辛さ・弱さ」を正直に伝えるということそれ自体を否定する気はさらさらありませんが、それだけのことを描くものやそれを受け取ることに抵抗を感じるのですな。ましてそれを商品として使うということに、プライドというか羞恥心みたいなものはないのかと。だってそれって至極パーソナルなものであって、だからこそ自分にとって大切なものだと思うんだけど、切り売りできるのはちょっと不思議だ。

まあでも、これはわたくしの肥大化したオタッキーなエゴだから世間の感覚とは乖離しているのかもしれない。

色々と書きたい事があるにはあるんですがまとまらないのでいいや。

ただでさえまとまりのない文章にこれ以上まとまりのない駄文を大海にポイ捨てするのは気が引けるし。 

 

 

落ちたので晒すことにしました

特に書く必要に迫られたわけではないのですが、別に理由がなくとも書くというのがむしろこういうメディアの使いどころだろうということで恥をさらすことにしてみた。

麻倉のハオさまも「お前は用がなければ散歩にもいけないのかい?(煽り)」的なことをおっしゃていましたし、無意味であることにこそ人間であることの意味があるというポリシーのもと、恥をさらすことにする。

で、恥をさらすまえに前提事項として知っておいてほしいのがこちら

blog.hatenablog.com

 

要するにこのアルバイトに応募して、その選考過程である課題があったので、その課題として書いたものをここに書いておこうと思ったわけです。

なんでだろう。よくわからないけど、まあなんとなく。

でもあれなのかしら。これってもしかして守秘義務的に晒しちゃいけなかったりするのだろうか。

まあ課題の内容について触れなければいいだろう、という楽観視に頼って晒していく。

 

そんなわけで以下に課題として提出した文章をコピペいたす。

 

(un)deadly diary/死者を死なせないツールとしてのブログ

 

ブログとは何だろうか。ふと、ある映画を観てこうして記事を書きながら思った。ある映画というのはディズニー・ピクサーの「リメンバー・ミー」だ。「感動した!」「家族に会いたくなった!」「おすぎです!」など、アメリカ本国だけでなく日本国内においても好評を博し絶賛上映中の3Dアニメーション映画。この「リメンバー・ミー」はメキシコの文化である「死者の日」をモチーフに、先祖への敬愛を主にしつつ死者に対して生者たる私たちが何をできるのかということを描いている。それは、タイトルのとおり「覚えていること」「思い出す」ということである。そうすることによって、死んだ後も死者の国で存在し続けられる、というのがこの映画の設定としてある。

ところで、はてなブログに限らずブログを閲覧する人は、更新頻度を別にして現在進行形で運営されているブログを読むというのが大半ではないだろうか。情報の流動が凄まじい今・現在を生きる私たち生者にとって、リアルタイムを共有するものと繋がりたいという感覚は直観として理解できる。

しかし、広大な――それでいて矮小な――インターネット上には、主を喪失したことで時の止まったブログも無数に存在する。温故知新ではないが、ときにはそういったブログにこそ今・現在を生きる私たちにとって価値あるものが内包されていたり、改めて気づかされることもある。

そういうわけで、今回ピックアップするのは筆者が敬愛(よりは親愛の方が強いのだけれど)してやまない稀代のSF作家である伊藤計劃が、作家としてデビューする前から日々の中で感じていたことを記していた「伊藤計劃:第二位相」である。

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/

2009年に34歳という若さで夭逝した伊藤は、このブログの中で映画・書籍・ゲームといったカルチャーや、そこから派生して科学や政治といったアカデミックな部分に触れており、膨大な「知」のアーカイブが覗える。特に映画に対する伊藤の思い入れは凄まじく、ある洋画の脚本を海外のサイトから拾いあげ英語から和訳を独自に行い日本語字幕(映画ファンには悪い意味でお馴染み戸田奈津子訳)の不自然さを面白おかしく指摘するなど、一つの記事を書くために厭わない労力としては少々行き過ぎているようなものもある。実は、そんな伊藤の小説作品を原作とする劇場アニメーション公開に合わせ、2015年に彼のブログ記事や映画評をまとめたはてなブログのサイトが公式に作成されていたりする。

http://itoh-archive.hatenablog.com/entry/about

この「伊藤計劃記録 はてな版」には彼のエッセイや対談をまとめたページがあり、その中に「人という物語」という題で寄せられたものがある。SF作家らしく徹底して科学的なアプローチでありながらも、人という存在をロマン主義的と言いたくなるような詩的に解釈するセンスは、「リメンバー・ミー」を制作したディズニー・ピクサーのスタンスに通じるところがある。実のところ、冒頭の引用はそれが理由でもある。

そして、このエッセイの中で伊藤の解釈する「人という物語」がストレートに具現化したものが「ブログ」なのではないだろうか。すでにこの世にはいない人のブログを読むということは、それ自体がどうしようもなく「その人」というフィクションを身に宿すダイレクトな行為なのではないだろうか。個人的な読みを許してもらえるのなら、それはつまり死者を語り続けるかぎり、死者は死なないということだ。紋切り型な「みんなの心の中に生きている」という言葉も、こうして遠回りしてから改めて口にしてみると、決して陳腐化しているとは言えない。

私が伊藤計劃の存在を知ったのはすでに彼が亡くなった後だった。それでも今、私はこうして彼の望むように彼を語っている。もしかすると、それは伊藤だけではなく死者の誰しもが望むことなのかもしれない。ブログは、そういう構造を必然的に含んでいるのではないだろうか。

 

以上。読書感想の方の最新記事と「リメンバー・ミー」の感想を読み合わせればまあこんな感じにまとまるのかな、という感じ。

以前からわたしが伊藤を好きなことは所々で触れていますが、まあそのへんの思いと自分の死者に対するスタンスのようなものをまとめた文章でしょうか。字数制限でかなり端折ったんですが、別に完全版を書こうという気力などは特になく・・・。

 

そんなわけで羞恥プレイ終わり。

TV killed movie car

「インド旅する銀幕の映画館」

アナプの家は3代続く「移動映画館」。映写機は85年間、トラックは75年間使い続けた年代物だ。アナブは名門大学を卒業したエリート。別の職業を選ぶ事もできたが、映画が好きで、上映会で喜ぶお客さんが好きで、皆で映画を共有する空気感が好きなのでこの家業を継いだ。しかし地方では欠かせなかった移動映画館も今や風前のともし火。全くもうけにならない家業をこれ以上続けられるのか。インドの変化を移動映画館から見つめる

インドの移動映画館のドキュメンタリー。再放送ではあるんですが、ものすごく演出過剰で笑ってしまいました。最終的に移動映画館を廃業することになりアナプが「ジ・エンドです」と言った直後から流れる感動げな音楽の演出。映画の看板の前から人が消えていく演出。「廃れたのはなぜか」という問いに対して「テレビがあるからだと思う」という発言をテレビで流すというバツの悪さ。NHKの編集スタッフはどう思ったのだろうか。まあこれを映画館で流されてもそれはそれで困るのだけれど、なんというかモヤモヤする。

インド映画といえば最近は「バーフバリ」がかなーりカルト的人気を博していますが、大幅カットされているということと前作をまだ観ていないということもあって「バーフバリ」は観に行ってないのですが、正直観たいよー。

 

あと「オリバー・ストーン オン プーチン」っていうオリバー・ストーンプーチンに取材したドキュメントもやっていたんですが、少なくともNHKで放送されていたものを見る限りでは完全にオリバー・ストーンプーチンにあしらわれていましたな。ああ言えば上祐といった感じでのらりくらりと躱されていて、結局のところプーチンの強権さを証明してしまっているような感じに。

○○すぎる~~という相対的なディス

よく○○すぎる~~という言葉を耳にする。

特に多いのが「美人すぎる~~」

これって相対的に~~の部分にカテゴライズされる人々が往々にして美人ではないということを言っているだけでなく、その「美人すぎる~~」の美人とされる当の本人にさえ「~~としては美人」という言外に蔑視のニュアンスが含まれているのだけれど、その辺に関して世間の人はどう考えているのだろう。

 

だって美人すぎる女優とは言わないでしょう。それは、女優というのは美人であるという暗黙の了解があるからで、美人すぎるなんて付けようものなら意味が重複してしまいますもの。だから、美人じゃない女優のことは往々にして「個性派」と呼んで差別化しているわけだ。じゃあ顔の良い女優は個性的ではないのか、という反論もできてしまうわけですけど、まあ片桐はいりと同じ空気感を他の女優が出せるかと言ったらそうでもないだろうけど。

何が言いたいかというと、「美人すぎる~~」というのは逆説的に~~の部分を見下しているということ。

とか書いてたら「美人すぎるアイドル」とかいう言葉を目撃してビックリ。どうも自分の感覚が世間からズレているようです。

いやーでも1000年に一度とか、あれはまあキャッチーなフレーズだからというだけで本当に1000年に一度かどうかなんていうのを調査したわけではないことはわかっていつつも、それでいいのかと思わなくもないわけで。

そうえいば「美しすぎるカードゲーム」とかいう、修飾語と被修飾語の関係性にズレを感じるフレーズがありましたな。EXILEというのがより笑いを誘うのですが、仮に「カードゲーム」という名詞を「美しい」と修飾する場合の美しさって何なんだろうか。「美しすぎるカード」ならまだイメージできなくもないけれど、「カードゲーム」となると途端に「美しさ」の尺度が不明瞭になってくる。