dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

伊藤計劃について考える

 この頃、伊藤計劃にハマっている。死後に彼の作品に触れたのだけれど、まーぶっちゃけてしまうと彼の作品である「虐殺器官」と「ハーモニー」に関しては初めて読んだときはちんぷんかんぷんだった(ハーモニーはそうでもないか)。「屍者の帝国」に関しても伊藤計劃の下地があったということを鑑みると、やはりあれもいまいち理解したとは言い難い気がする。もちろん、それに関してはちゃんと理由がある。言い訳じみているのだけれど、恥部を晒すと思って勘弁してもらいたい。わたしは彼の作品に接触したとき、それまでの人生でそれほど本を読んだことがなかった。おそらく、両手の指で数え切れる程度だっただろうと思う。だから、本の読み方があまりわからなかったし、単に読みきれなかっただけなので作品批判ではないのは承知の上で、作品の魅力がわからなかった。ていうか、今でも読書に関しては下手の横好きでしかないと思う。どうでもいいけどイーガンとか全部理解できている読者って何人いるのよ? や、それを抜きにしてもイーガンは読んでてめっちゃワクワクするんですけどね。

 さてさて、前置きが長くなってしまったけれど、これがわたしと伊藤計劃との出会いだった。で、ここ一年くらいの間に本を読んだり映画を見るようになって、買ったままほとんど読んでいなかった(ガメラの部分だけ読んでいた)「伊藤計劃記録」「伊藤計劃記録 第二位相」を読んだのだった。

 で、完全にこの人に惚れた。卓抜した知性(その醜さも含め。というかそれこそ、わたしが彼のもっとも好む部分なんですが)と膨大な知識でもって、幅広い分野をユーモラスに語るその人に、わたしは惚れた。

 けれど、おそらくは世の大半の人が伊藤計劃に対して抱く憧憬や評価というものは、自分の抱くそれと異なっている気がする。というか、気がすることに最近気づいて、それがなにかなんとなく今日わかった。

 たぶん、彼の周囲の人間、とりわけSF作家(メディア問わず)にとって伊藤計劃という人間を見るときに彼をSFとしてSF作家として見ている比重がとても大きいのではないかと思う。だからこそ、SF界隈では彼の名前が刻まれているのだろうし、それは事実である。

 たしかに、自分もSFが好きだ。けれど、わたしが伊藤計劃を見る視線は、多く人のそれとは違う。わたしが伊藤計劃を好むのは、ほかの人がそうであるよりは、たぶんウェイトが違う。

 どういうことかというと、わたしがすきなのは「SF作家伊藤計劃」よりも「フリークス伊藤計劃」が好きであるということ。

 フリークとしての自己の醜悪さに対する怜悧でありながら感傷的で感情的な部分。そしてフリークを自覚した上でなおそんな自分を肯定・否定する弁証法的に二律背反を飲み込むその姿勢。

 異世界モノとやらが跋扈し、オタクがもはやオタクたりえない今現在にあって、わたしの疎外感は彼に強烈なシンパシーを見出すのは当然のことだった。逆説的だけれど、その本質が「オタク的」でありながらなぜ伊藤計劃がSF界隈でSF作家としての側面ばかりがフィーチャーされるのか、ということが見えた気がする。

 実際に会ったことすらないけれど、実際に会った多くの人よりは「フリークス伊藤計劃」に共感できるのではないかと思う。それほど、合致する。

 誰かに対して一元的な見方をするなんてことはないし、多くの伊藤計劃フォロワーや愛好家だってそれは変わらない。けれど、その多くは彼の才能にピントを合わせているように思えてならない。

 つまり、伊藤計劃とはその認知度や功績とは裏腹に、かなり一側面的にしか語られていないのではないかと思う。それはとりもなおさず、彼がSF作家としてあまりに偉大すぎるてその人間としての語り口が豊富でもあるがゆえなのだろうけれど、わたしはその「SF作家伊藤計劃」に埋もれがちな「別の伊藤計劃」すなわち「フリークス伊藤計劃」「自己嫌悪する伊藤計劃」「それでも自分大好きな伊藤計劃」「キモオタ伊藤計劃」が好きだ。

 いわゆるオタクこそ伊藤計劃に見入りそうなものだけれど、どうしてオタクは伊藤計劃に注目しないのか。理由はいくつか考察できるけれど、それはべつにいい。そうなる今のオタクがどうとか、そういう話に少なからず突っ込むことになるし、それは面倒だから。

 自分の考えに対する自己弁護というか、論の補強として、小路啓之を援用できる気がする。

 わたしの最も好きな漫画作家に小路啓之(去年に事故で亡くなってしまいました。結構ショックだった)がいますがなぜSF作家である伊藤計劃と、一見すると映画好きという共通点以外にあまり接点を見いだせそうにない二人が自分にとって特別な存在であるのか。それはやっぱり、二人ともがフリークスだったからだと思う。

 ようやく、本当にようやく自分の好きな、自分の得意なものを見つけることができたんだと思う。それが履歴書に書けないものであっても、ようやく見つけることができたことは素直に嬉しい。