dadalizerの雑ソウ記

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情報偏


 最近、東大生をフィーチャーした番組が増えてきている。

 国内最高峰の学力を誇る大学であるわけだから、テレビを見るような層にしてみれば「わかりやすい」のだろう。「全米が泣いた」とか「全米ナンバーワン(実は初週のみ)大ヒット」と同じで、東大というわかりやすいブランドを売りにしているわけだ。

「東大かーちょっと見てみようかなぁ」という心理が働くのだろう。いや、個人的にはその心理はわかるようでわからないのだけれど。

 けれど、テレビで華々しく活躍している東大生を消費していきながら、目下のところ東大が抱えている問題に目を向けるものはそんなに多くない。

 一体どれだけのテレビ視聴者が東大が下記のような問題に目を向けているのだろうか。

「東大が無期転換を阻害している」労組、非正規教職員8000人の雇用危機訴える - 弁護士ドットコム

 そもそも多様性云々という気運が高まっているなかで、未だに学歴主義を助長するようなメディアの使い方をしているというのもいかがなものか。それは国内の大学だけに向けられたものではなく、たとえばハーバード大学と言えば名前を聞いただけで「おー」となるだろうけれど、ブラウン大学と聞いてどれくらいの人が「おぉー」となるだろうか。海の向こうのことなんて、あまり気にかける必要もないのだろうが。

 

なんかまとまりのない記事になってしまった。

 

追記

 で、なんでそうなるのかなーと考えたときに、情報を取得するためのプロセスがSNS、というかインターネットの普及で変容したからなんじゃないかと推察したのであった。あとはまあ単純にバイアスの問題でもあるのだろうが。

 mgsシリーズでお馴染みの小島秀夫監督(だったかな)が、『最近は「好きな〇〇」だけで完結してしまって、それに関連するものに手を出したりすることが少ない』というような意味のことを言っていた。

 簡単に言えば「みんなゴジラは知ってるけど(よしんば円谷英二は知っていたとしても)本多猪四郎のことは(あんまり)知らないよね」っていうこと。ゴジラの場合はゴジラというネームがそれに付随する核という大きな社会問題と結びつくことで、「ゴジラ」という部分だけが製作者や映画作品という前提となる概念から切り離されて語られることが多くなってしまった。その結果、名前は知っているけどその実態を知らないということになってしまった。ゴジラの監督である本多猪四郎のほかの作品を知っている人はどれくらいいるだろうか。

もっとも、半世紀以上も前の一映画作品を見る機会なっていうものは、よほどの機会がなければ普通はないのだが。

 ただ、最近の情報取得のプロセスは、それがより顕著で能動的になってきているような気がする。

 基本的に情報というやつはそれそのものだけで完結するものはないと思うのだけれど、ウェブが発達した現代では部分的に抽出された情報だけを簡単に手に入れることができてしまうのでは。

 たとえば「東大 クイズ」というワードで検索すれば、それに関連する情報だけが差し出される。実際のところ、大局的・社会的意義という見地からすると東大に関連するファクターとして「クイズ」などというのは(というとクイズに失礼なんでっしゃろが)瑣末なことでしかないのだけれど。ノイジーマイノリティというのも、たぶんこの辺の問題が関連しているんじゃなかろうか。

 別に今も昔も、誰だって調べたいことを調べるというのは変わらないのだと思うのだけれど、今の場合は思いがけない情報との出会いというものが起こりにくいんじゃないかしらしらしら。なんて書きながら、むしろ技術的には、より「ある情報」に関連する情報というものに触れることは容易になっているはずでは、と思い直す。

Amazonで何かを注文したりカートに入れると、「これを買った人はこんなものも買っています」といった感じで情報の深度が増す。ほかにも、ある動画を見ていて関連動画を樹形図的に飛んでいくことで全く知らない何かに到達するなんてこともあるだろうし。ということを書いた直後に、またまた思い直す。でも、これって結局のところ自分の関心のある部分だけがより一層浮かび上がってくるだけで幅が広がることとは違うんじゃないかなと。

 

 まああれです。みんな色眼鏡というかバイアスを通してしか情報を見れないということですな。どれだけネットに膨大な情報があっても、それとどうすくい取るのかは恣意性による。言うなれば、ざるの網の部分が関心の部分であり、網の目というのが関心のない部分であり情報がこぼれていく穴であるということ。で、自分にとって都合のよいい濾された情報だけが手元に残ってしまう。しかも大抵はそれで満足してしまうため情報に広がりができない。

 Twitterというのは、そういう意味では広がりを持たせてくれるツールでもあるのだけれど、一方で身内を固めるだけの馴れ合いの場になってしまいかねない危険性も同時にはらんでいるような気がする。Twitterやってないから完全に憶測ですが。

 

 あーなんか思っていることをうまく言語化出来ていない気がする。