dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

懲りもせずドキュメンタリーを見る

ミラーリングという言葉がある。

ここでいうのはpc用語のほうではなくコミュニケーション手法のほうで、ウィッキー曰く「相手の動作に対して、まるで鏡のように自分の動作も合わせる方法のこと。」とある。

はからずも、これは自分という個が外界・・・つーか内界含めた世界全体に対するあり方を示しているように思う。

 

わたしは地球儀を向けられて「ミャンマーがどこにあるかわかる?」と言われたら答えられない。アジアの国という漠然としすぎていることはわかるけれど、それ以上のことは何も知らない。曲がりなりにも最高学府を出ているにもかかわらず。そうして調べてみると、一番上にWikipediaが出てきて、ビルマ語が対応していない機種がほとんであるという事実を知る。そもそもビルマ語というものを初めて知る。

ミャンマーでは25%の子どもが学校に通えない「らしい」。テレビ画面に映っていたのはレンガを数える仕事をする少年だった。彼の名前は「テッ」という。この世に「っ」という促音で終わる名前があることを知らなかった。かといって、驚きがあったわけではない。一種の諦念(という名の自己欺瞞)で予防線を張っているため、世界に対する向き合い方もそれに相応しいものなのです。だから身体性の伴わない情報に対して大きなリアクションをすることができない。というか、しないようにいつごろからか自己形成を始めていた。たぶん、高校時代のあまりに外界への無頓着の反省でもあるのだろうとは思う。それを否定するつもりはないし、ごく平凡な高校生活以上のものではなかったのだけれど。

レンガを数える仕事で思い出したが、そういえばほんのページをひたすら数えるだけの見た目は少年・実年齢は青年の輩がいましたっけ、フィクションだけど。当初は「そんな楽で苦痛な仕事があるかいな」と思っていたけれど、テッの仕事を見たあとではあながちありえないものでもないのかもしれないと思ったり。

そういう、彼やミャンマーに暮らす人にとっては当たり前のことも、自分は知らない。そういう世界があることを知らない。

無知をひけらかすようですが、都道府県も全部言えない自信がある。そんな常識すら答えられないのである。

でも、じゃあ常識って何だろうか。「常識的に考えて」「常識問題」って慣用句みたいに使われているけど、常識って何。それを規定する具体的な境界線はああるのだろうか。義務教育で教わったこと、と線引きできないこともないけれど、実際は高等教育を受けていることが前提の社会であるから高校生レベルの知識は必要だ。じゃあ高校生レベルの知識ってなんだ。そもそも、文理選択によって分化するだろうし学校やそれこそ偏差値によって個々の知識も変わってくる。というか、常識がイコールで知識なのかという疑義を呈してみることもできるし、考え出すとキリがない気がする。一番それっぽいのは、全体の平均とかそんなところだろうか。

 

こんな益体のないことをグダグダと書き付けておきながら、別に常識についてこれ以上何かをどうしようというつもりはなかったりする。(というか書いているうちに何が書きたかったのかわからなくなったり書きたいことが右往左往してまとまりがなくなったりする)

ただ単に、どれだけ世界が広大無辺なものであったとしても、自分が知っていること以上のことはないということだ。

無知は罪だ、と言う人がいる。そういう人は、主にそういうことを言えるだけの余裕を持った人で、基本的には我々のように安寧を貪る側の人間に近い。しかし、どうして知らないことが罪なのだろうか。それはたぶん、今どこかで起こっている悲劇(一秒間に何人が死んでいるだとか何パーセントが教育を受けられないだとかそういう現実だ)を知らずにのうのうと平和に生きていることを咎めているのだろう。もっといえば、そういう現実を知ってしまった彼らは、世界・現実に対して誠実であろうとするがあまり「知らなかった」状態に戻ることができなくなり、それを知るまでは「非日常」だった世界を自らの「日常」とすることでしか世界に向き合えなかった人々なのではないかと思う。そして、非日常を日常化してしまった彼らはそれ以前の彼ら自身=無知な人々を嫌悪とまではいかずとも、無責任な奴輩だと批判的な目を向けているのではないだろうか。

もっとも、それは少子化社会の中で義憤に燃える母親のようなものなのかもしれない。少子化という今ある現実に対し、子を宿し出産するということはそれ自体が現実への誠実なアプローチであり、子供を産めばそれ以前には戻れないんだもの。子供を生んだ以上は育てる義務があるのだから。同じように、現実を知った以上はその現実に対する責任が生じる。と、誠実な彼らは思っているのだろう。そして、世界をよりよくするために子を産めと、世界を知ってその責任を負えと要請してくるのだ。

大半の人は、戦争や孤児や難民や色々な悲惨な話を聴いてその場で何か思うことがあっても、次の日にはあるいは次の瞬間にはそれまでの日常に回帰してしまっている。わたしだって、こうして日常に戻ってきているわけだし。もちろん、少なからず現実に思うところがあって、誠実に向き合えないまでも不実ではいないようにとこうやってブログに綴っているわけではあるけれど、だからといってテッを救うために具体的な行動を移そうとは思わないだろう。本を読んだりドキュメンタリーを積極的に見たりする要因にはなるだろうけど。

そういえば、大学の同期に一留して海外にボランティアに行った人がいたっけ。彼女が今どうなったかは知らないけれど、普通に就活していたということは後輩から聞いた記憶がある。

彼女もまた、誠実であろうとして行動に起こしたのだろうか。

 

 

だけどわたしは、身体性を伴わない情報をフィクションとして捉えるようになってしまっている。というか、ほとんどの人はそうじゃないだろうか。どれだけテレビで悲惨な事件や事故を目にしても耳にしても、話のタネにする以上の何かをしようとする人は多くないはずだ。それが、たとえ3.11であったとしてもだ。

はっきり言おう。3.11のときに逃げ惑う避難民や異常をきたした原発を目の当たりにしても、放射能汚染云々と世間が騒いでいる(ように見える)中でも、わたしはほとんど無関心だった。なぜなら、それらの情報すべてに「わたしの身体性」は介在する余地がなかったからだ。もちろん同情の念を抱いたりはしたし、不安に駆られることもあった。だからといって、何か具体的に行動に起こしたかといえば、そんなことはない。

だって、身体性の伴わない事象なんてものは結局のところ他人事でしかないのだもの。それはほとんどのクリエイターにとっても、そうであると思う。いや、もちろん何かしらを創作するという行為によって現実に誠実に向き合っていることはたしかなんだけれど、当事者ではない彼らの創作行為は現実に真正面に向き合ってはいるけれど間接的でしかないんじゃなかろうか。逆説的にいえば、当事者であるクリエイターたちは直接的に現実に向き合うために間接的な手法を選択したということであって、それは多分直接的に現実に対処するよりも現実的な手段なのだろうけれど。皮肉なことに。

 

だから、テッの現実を知ってもわたしはこうしてブログをダラダラと綴るだけのことしかやらないしできない。

そんな精神性しか持ち合わせていない。心の構造が物理的に解き明かされつつある今、心すらも身体性の中に取り込まれているのではないかという気がしてならない。そうなると、身体性の欠如した世界との接触なんてものはやはり接触と呼ぶにはあまりに希薄すぎやしないだろうか。なんていうのは、あまりに自己擁護が過ぎるかな。

まあ、これが自分なりの正直さではあるのだけれど。

 

何が言いたいかってーと、ほとんどの人はその現実の当事者でもないかぎり世界へのリアクションは希薄なものになるんじゃないかな。

まあ作用反作用の法則じゃないけど、自分にとって現実の作用が大きくないとその反作用としての世界への働きかけというものは同等以下なものがほとんどなんじゃないかと。

現実からの作用に対する個々の反作用量というのは、その人が培ってきたものに依拠しているんじゃないか、と。

 

んなこと長々とまとまりない文章を垂れ流すまでもなく自明ですが。まあ、だから雑ソウなのですが。

 言いたいことがまとまらなくて散漫になっている上に、下書きしたまま一向に記事にするための最低限の体裁すら整えられないものがどんどん溜まっていくのも結構つらいんで、こうしてどうにか吐き出していかないと逆流しかねないし。 

 

 

毛ほども関係ないのですが、ミラーリングと打ち込もうとして誤って「ミラーリヌ」という存在しない(どっかの地域のどっかの国では何かしら、それこそ神とかって意味を担っている可能性もあるし誰かの名前だったりすかもしれない)言葉をタイピングしてしまった。なんだか意味ありげで意味がない(少なくともヤフー検索では引っかからない)というのが、なんだか可笑しい。