dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

挙手する女性たち

 

女性たち、という部分がすでにアレか。ケヴィン・スペイシーのことを考えると人たちにしないと。

 

「#Me Too」が話題になっている。これに関してカトリーヌ・ドルーヴ批判していたりして、不謹慎ながら色々と混沌とした状況になっていて面白いのだけれど、日本でもはあちゅうという人(この人について何も知らないんですが)のツイートなんかが取りざたされた(されたのか?)りしたわけで、特に映画業界から端を発したということもあってわたしもゴシップ的に楽しんでいたわけですが、それとは別に何か奇妙な感覚を抱いていた。で、それがゴールデングローブ賞の一件やジェームズ・フランコまでがそういうセクハラ(ていうか参照した記事の内容が本当ならほとんどレイプなんですが)に及んでいたという記事を読んで、改めてこの一連の騒動における自分の奇妙な感覚について考えを深めてみた。

 

ただまあ、もしもこの記事を目にする人がいたとしたら、どんなにわたしが前置きをして予防線を張っておいても糾弾するだろう。それはまあ覚悟の上ではあるし、おそらくはその糾弾は倫理として正しいことなのだろうけれど、これから書こうとしていることは倫理のレベルの話じゃないとだけは言っておきたい。

 

そんな予防線を張った上で、奇妙な感覚について、その正体がどのようなものだったかということなのだけれど、簡単にまとめてしまうとこのムーブメントを傍から見ているとすごく「ダサい」のだ。

何がダサいのか、と問われれば一言だけ「便乗する姿勢」と言い添えるだけなのですが、倫理というレベルにおいてしか語る余地のないこの騒動においてこれほど被害者たちを逆なでする言葉もないだろう。

そりゃもちろん、それはお前が騒動とはまるっきり外にいるからだ(文明社会に属している以上は他人事ではないのですけど)とか、被害者の気持ちがわからないからそんなこと言えるのだとか、まあ正論で反論しようと思えばいくらでもできる。それが感情論だろうとなんだろうと。効率、という話を持ち出すと余計な批判にさらされる上にそれを良しとしているシステムとか社会構造にまで話を広げないといけなくなるのでしませんが(そもそも、そこまで知見がない)。そういう問題じゃない、と言われればそれまでだし。ま、前提としてすでにわたしが既述しているんですけど、それについては。

自分がもし被害者だったら同じような行動を取るだろうし・・・・・いや、どうだろう。自分は結構反射的に反撃してしまうタイプだから、そもそもMETOOみたいな後出しという形式にならないかもしれないけれど。

でもね、騒動のきっかけとなった最初の数人はともかくとして、そのあとに続く何百何千何万という被害を訴える声は、あまりに「虎の威を借る狐」ならぬ「数の威を借る狐」のように見えてダサいのだ。この世の中、セクハラ・パワハラは他人事ではなく明日は我が身であると考えてはいるけれど、第三者の目にはこうもダサく写ってしまうのかと苦笑いしてしまう自分もいる。

虎の威を借る狐ということわざは批判的な意味として用いるわけですが、それがなぜかといえば、ある側面において醜い・・・とまではいかずともダサいとみなされるからだ。「#Me Too」というのはまさにこの言葉の示すとおりであって、後ろ盾となるパワーが異なるだけで性質としては同じものだと思う。別に威張ってるわけではないし被害を白日のもとに晒すことは重要なことではあるんですけど、あげられた反撃の狼煙の源がほとんど外界に依拠しているという様相が、傍観者の目線からするとダサい。

そういう後ろ盾を使ってもダサく見えないのは、それに自覚的であるかどうかだと自分は思います。この騒動は別にスポーツでもなければ創作の話でもないので、この意見がそもそも的外れだってことは重々承知なんですが、どうも有象無象の愚衆が一である自分には、愚衆の愚衆たる愚衆性をあけっぴろげにしているようで居た堪れなくなる。勝手に居た堪れなくなってろ、という話ですが。

 

多分だけど、カトリーヌの発言というのはそのへんの女性としての部分よりも人間性の美醜として、あまりに便乗する女性が多いことに苦言を呈したかったんじゃないかなーと思うのですよね。それとも、そういう権力の傘の下にいたから、なのか。

 

ま、所詮はただの傍観者でしかない卑怯者の戯言ではありますが、こういう小癪な意見を持ったパンピーもいるということ事実をネットの世界の片隅にちょこんと残しておくくらいのことはしてもバチは当たるめぇと思ったので。

 

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ちなみにざっと参照した記事をいくつか上げておきますん。

4つ目の記事にある「ぼくのりりっくのぼうよみ」氏に関しては伊藤計劃トリビュート関連であまり良い印象を持っていないので、たとえそれが正論であろうとなんだろうと「でもお前は伊藤計劃のこと大して好きじゃないだろ」みたいなやっかみを抱いてしまう。そんなわたしはダメ人間。

 

すごいどうでもいいんだけれど、もしもセクハラをしたのが黄色人種や黒人で、被害を受けた人が実は人種差別主義者だと後から判明したりしたら、世間の人たちはどう反応するんだろうか。

 異なる正義のぶつけ合いとして「それはそれ、これはこれ」という風になるのだろうけど、 その論法はわたしの「ダサい」論にも使えませんかね? あ、使えないですか。そうですか。