よく○○すぎる~~という言葉を耳にする。
特に多いのが「美人すぎる~~」
これって相対的に~~の部分にカテゴライズされる人々が往々にして美人ではないということを言っているだけでなく、その「美人すぎる~~」の美人とされる当の本人にさえ「~~としては美人」という言外に蔑視のニュアンスが含まれているのだけれど、その辺に関して世間の人はどう考えているのだろう。
だって美人すぎる女優とは言わないでしょう。それは、女優というのは美人であるという暗黙の了解があるからで、美人すぎるなんて付けようものなら意味が重複してしまいますもの。だから、美人じゃない女優のことは往々にして「個性派」と呼んで差別化しているわけだ。じゃあ顔の良い女優は個性的ではないのか、という反論もできてしまうわけですけど、まあ片桐はいりと同じ空気感を他の女優が出せるかと言ったらそうでもないだろうけど。
何が言いたいかというと、「美人すぎる~~」というのは逆説的に~~の部分を見下しているということ。
とか書いてたら「美人すぎるアイドル」とかいう言葉を目撃してビックリ。どうも自分の感覚が世間からズレているようです。
いやーでも1000年に一度とか、あれはまあキャッチーなフレーズだからというだけで本当に1000年に一度かどうかなんていうのを調査したわけではないことはわかっていつつも、それでいいのかと思わなくもないわけで。
そうえいば「美しすぎるカードゲーム」とかいう、修飾語と被修飾語の関係性にズレを感じるフレーズがありましたな。EXILEというのがより笑いを誘うのですが、仮に「カードゲーム」という名詞を「美しい」と修飾する場合の美しさって何なんだろうか。「美しすぎるカード」ならまだイメージできなくもないけれど、「カードゲーム」となると途端に「美しさ」の尺度が不明瞭になってくる。