dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

もやもやする

なにかこう・・・嫌悪感がある。

何でもかんでも包摂してこようとする世界的な動向と、そのサブシステムの一つであるコンテンツ周りの動きに。これは「社会的なテーマを扱っているのだ」とか、自分の弱さを認めてもらおうとする自分ルポみたいなまんがとか、社会問題の二次創作じみたことを描くまんが(両方とも主にウェブ掲載のものばかり)とかが増えている気がする。

 

けれど、そういうものって往々にして漫画としてはどうかという部分がなんだか無視されがちな気がするのである。

名前は出しませんが、ある作品を読んでいて思ったり。

だいたい「外国を背景」ってふわふわしてんなオイ。外国って言っておきながら人物の名前意外が全部完全に日本的な描写なのはなんなの。なにその都合のいい部分だけローカライズする魂胆。そんなのだったらまだ一昔前の(今もだけど)洋画におけるへんてこ日本描写の方が愛嬌あるっつーの。

ていうか、扱っているテーマは重そうだけど描きかたは「なろう」系と変わらない。理想を押し付けられただけのキャラクターだから人間性ないし、基本的にクリシェだし。要するに世界が無条件で主人公に傅いているアレ。いやそれまったく考えてないよ。普通はそれ咎める部分でしょ。まあ身近な人間より自分を知らない人間の方が素直に話せるというのはかなり理解できる部分ではありますがね、本来は親がなすべき部分を代替として別の都合のいいキャラ(それが揃いも揃って女というのも、いかにも理想化された女性像という感じで)。そのくせ都合のいいときだけ母親を引っ張り出してくるのも寒気がする。

ていうか、この主人公完全にサイコパスでしょ。自分の目的の達成のために自分の愛嬌という武器を(無意識にせよ)使って他者を懐柔し、あるいは欺いているわけだし。それを純粋無垢として描いているというのは、はっきり言ってサイコホラーの系譜でしょ。それをわかって描いているのだったら天才だと思うけど。

男性の臭気をほぼ完全に脱臭しているのも、問題提起すらさせないようにしか思えない。

イライラする理由としてはほかにも話の都合上でキャラクターが最適解を避けるように行動しているから全然話が進まない上に、基本的にやっていることも描いている手法も別のキャラクターを使っているだけで同じだから、同じ問題を延々と同じ手法で眺めているだけだから、というのもある。

それぞれのキャラクターは世代や境遇こそ違うけど女性だし、最終的には主人公を称揚する装置に落ち着くし。

まあ連載中だし何とも言えない部分はあるけど、まさかハッピーバースデーエンドじゃあるまいな。あと どうでもいいけどlolって文語表現じゃないの…?

 作品自体はアレだったけど「アンダー・ハー・マウス」でエイプリル・マレン監督が言っていたことはかなり重要な指摘ではあったわけだけれど、そういうのを欠いているのが多すぎる。だいたいね、NHKハートネットTVにしたって見る人から見ると「は?」となる部分だってあるわけですしお寿司。

 

 

社会問題を提起したように見せかけてその実、中身は思考実験的なものでもなく「なろう」なものだったり、自分の弱さを切り売りするだけだったり、というものには本当に辟易する。や、それをインディでやるならわかるというか、極めて個人的なものとして綴るのであればわかるのですが商業ベースになるというのがよくわからない。

 

そういうのを全部ひっくるめて、なんというか巨大化した綾波に人間という存在をてごめにされてしまった感じがあるのでせう。いや、人間ていうか、弱者だろうか。

弱者を救済(この言い方がすでにからして階級的物言いだけど)しようとするのは賛成だし現実においてはじゃんじゃんやるべきだ。

けれど、何か居心地の悪さを覚える。それはわたしの精神性が陰気なオタクよりであることが大きいのだろうけど、すべてを包み込んでこようとする潮流が嫌いだ。

体制側がロックやパンクに「いいですね~」と拍手喝采を送るような気持ち悪さというか。

ていうか単純に「レリゴーする自分」をそのまま描けば表現として通じてしまうような昨今の流れがキモイ。「シザーハンズ」くらい自己嫌悪と自虐と自己愛をごちゃごちゃにしてハッピーでもないくらいに帰着する二律背反や葛藤を描いてこそ表現でしょうが。

 

そもそも義務的で欺瞞的な正義や慈愛を振りかざしてるようにしか思えないんだっつーの。人なんて好き嫌いがあって当然なわけで、それを欺瞞でラッピングしちゃってどーするのよ。

「辛さ・弱さ」を正直に伝えるということそれ自体を否定する気はさらさらありませんが、それだけのことを描くものやそれを受け取ることに抵抗を感じるのですな。ましてそれを商品として使うということに、プライドというか羞恥心みたいなものはないのかと。だってそれって至極パーソナルなものであって、だからこそ自分にとって大切なものだと思うんだけど、切り売りできるのはちょっと不思議だ。

まあでも、これはわたくしの肥大化したオタッキーなエゴだから世間の感覚とは乖離しているのかもしれない。

色々と書きたい事があるにはあるんですがまとまらないのでいいや。

ただでさえまとまりのない文章にこれ以上まとまりのない駄文を大海にポイ捨てするのは気が引けるし。