dadalizerの雑ソウ記

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助けるという行為について~ヒーローを添えて~

助ける、という行為が純粋に「善」であると言い切ることへの恐怖がある。

だって、「助ける」という行為そのものが「善」であるとするなら、たとえば凶悪な人殺しを助けることも「善」であるということになるのではないか。そんな奴は助けなければいい、というのであればそれは主観に基づいた独善でしかなく、純粋な善性とはいえない。そもそも「善」は「悪」ありきで語られる以上、純粋ではありえないと思うのですが。

第一、「純粋な善」というのもよくわからない。「清潔なうんこ」と言っているようなものではないのか。善も悪も、結局のところはその時代時代でメインストリームである社会規範でしかないのではないか。であれば、環境によって形成されているだけでしかない。という前提を用いれば、強いていうこともできそうではある。生まれついた瞬間から、その価値観を有しているとか。いやまあ、先天性を純粋性に置換すると即座に血統主義になり替わってしまいそうでもあるんですが、「何にも影響を受けていない」ことを仮に純粋とするならば、生来のものを純粋性と仮定してもよさそうなものである。

と、ここまで書いておきながらその生来性すら形質によるものとするのであれば結局のところ親からの遺伝ということになり、その個人単体の純粋性というものは遥か彼方へ吹き飛んでいってしまうような。

 

それはひとまず置いておくとして、助けたら間違いなく他者に被害が及ぶことが想定されている者を助けるという行為は果たして純粋に「善性」を持つと言えるのだろうか。

助けるという行為それ自体は確かに肯定的なニュアンスを含蓄しているのではあるだろうが、しかしそれをもって「無条件に肯定できる善」ではないような気がする。誰が誰を助けるか、というシチュエーションにひどく依拠している気がするのだ。何かに依拠・依存している時点で前述の純粋性の前提についての考えと同様に純粋ではいられないのではないか。

であれば、善などというものはそもそも存在しないのではなかろうか。

リッキー(正確にはその孫の発言ですが)いわく、善も悪も概念でしかない、と。これはかなり腑に落ちる。

哲学とかよく知らないけれど、今のところ自分はそれが一番しっくりくる。だからヒーローというものへの不安みたいなものがあるのだろう。

 

いつ頃からだろうか。「ヒーロー」というものが安易な商品になり始めたのは。MCUアベンジャーズ、タイバニがほぼ同時期(といっても一年くらいズレはあるけど)だったり、それに影響を受けているであるヒロアカとか、「最後の騎士王」のキャッチコピーである「それは本当にヒーローなのか(今思い返しても本当に酷いと思う、これ)」といった言葉が安易にパッケージとなりうる(と売り手が思い込んでいる)現状は、やはり色々と怖いというか。そういえば、月間ヒーローズなんてそのまんまな月刊誌が創刊したのもこの時期ではなかったかしら。

やはりその点において、禿の良くも悪くも感情的な(それゆえに共感と反感を引き寄せる)言説よりもprojectの分析的で新たな視点をもたらしてくれる言説の方が信頼を置けるのだろう。

10年代がどんな年だったか、というのはまだわからない。けれど、一つの側面として「ヒーロー」の年だったとは言えるのかもしれない。