Eテレで身体障害者(この「障がい者」という言葉云々にかかわる問題にもいろいろと思索をめぐらしたいのだけど)だけの劇団というものがあるということを知って、自分の中にあるものとの共通点があったので少し考えてみたくなった。
持つがゆえにできないこともある。たとえば
一つの前提として、彼らが身体障害者であるという前提を抜きに人前でその動きを披露したとき、はたして人々はどう見るのだろうか。無論、これに関してはそもそも前提が危ういということはある。腕がないとか下半身がないとか、目に見える欠損(とあえて記述する)を認識した場合は、観る側はそれが身体障害者によるパフォーマンスであるということを理解させられてしまうからだ。
わたしは、自分に才能がないことを知っている。そして金さんの怒りやパッションというものは、おそらくは健常者と呼ばれるマジョリティー(でしかない)我々に対する被抑圧意識や羨望といったものがあるはずだ。
身体障害者は、その肉体そのものが一つの主張を帯びている。身体性、というか身体そのものが過去から現在に渡って芸術として機能してきている。
語弊を恐れずに書けば、五体不満足な者というのはそれだけで上記のように機能する一方で、五体満足な者はその中でも極めて突出した美醜を持ったものでなければ芸術性を帯びえないのではないか。
野卑で粗野な書き方をすれば、競争率と置き換えてもいいかもしれない。
不謹慎なことを言えば、そのフリークス性が少し羨ましくもある。
もちろん、その価値観を形成してきたのはほかでもないマジョリティ側だと思うのだけれど。
だからこそ、本当にすべてがノーマライゼーションされたとき、その「欠損している」という「だけ」の身体的な差異というものは、果たして芸術足りえるのかどうか。
同じことは同性愛にも言えると思う。ホモセクシャルな恋愛模様、「アデル~」でも「ブロークバック~」でもいいけれど、あれが人を引き付けるのって要するに同性愛というものが禁忌とされているからでしょう?
禁忌的なものだからこそ人が引かれるのであって、仮にそういった禁忌的なものがすべてインクルードされた(まあ殺人は例外だけど)完全なノーマライゼーションされた世界があったとして。その世界で上記のような作品というのは、果たしてその価値を保ち続けることができるのか。
それが、身体障碍者の身体表現にも言えるのではないか、と思ったりする。
まあ、現実的に考えてそんな世界が訪れることは当面はないだろうけど
以上が、かなり前に下書きしていた文章なり。
改めて読み直すと、色々と危ない表現がある。かといって、必要以上に修正を加えると当時の自分の考え方や稚拙さといったライブ感を反芻することができないので、あえてこのままポストしてみた。
今は、もうちょっと考え方も変わったけれど。