dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

落ちたので晒すことにしました

特に書く必要に迫られたわけではないのですが、別に理由がなくとも書くというのがむしろこういうメディアの使いどころだろうということで恥をさらすことにしてみた。

麻倉のハオさまも「お前は用がなければ散歩にもいけないのかい?(煽り)」的なことをおっしゃていましたし、無意味であることにこそ人間であることの意味があるというポリシーのもと、恥をさらすことにする。

で、恥をさらすまえに前提事項として知っておいてほしいのがこちら

blog.hatenablog.com

 

要するにこのアルバイトに応募して、その選考過程である課題があったので、その課題として書いたものをここに書いておこうと思ったわけです。

なんでだろう。よくわからないけど、まあなんとなく。

でもあれなのかしら。これってもしかして守秘義務的に晒しちゃいけなかったりするのだろうか。

まあ課題の内容について触れなければいいだろう、という楽観視に頼って晒していく。

 

そんなわけで以下に課題として提出した文章をコピペいたす。

 

(un)deadly diary/死者を死なせないツールとしてのブログ

 

ブログとは何だろうか。ふと、ある映画を観てこうして記事を書きながら思った。ある映画というのはディズニー・ピクサーの「リメンバー・ミー」だ。「感動した!」「家族に会いたくなった!」「おすぎです!」など、アメリカ本国だけでなく日本国内においても好評を博し絶賛上映中の3Dアニメーション映画。この「リメンバー・ミー」はメキシコの文化である「死者の日」をモチーフに、先祖への敬愛を主にしつつ死者に対して生者たる私たちが何をできるのかということを描いている。それは、タイトルのとおり「覚えていること」「思い出す」ということである。そうすることによって、死んだ後も死者の国で存在し続けられる、というのがこの映画の設定としてある。

ところで、はてなブログに限らずブログを閲覧する人は、更新頻度を別にして現在進行形で運営されているブログを読むというのが大半ではないだろうか。情報の流動が凄まじい今・現在を生きる私たち生者にとって、リアルタイムを共有するものと繋がりたいという感覚は直観として理解できる。

しかし、広大な――それでいて矮小な――インターネット上には、主を喪失したことで時の止まったブログも無数に存在する。温故知新ではないが、ときにはそういったブログにこそ今・現在を生きる私たちにとって価値あるものが内包されていたり、改めて気づかされることもある。

そういうわけで、今回ピックアップするのは筆者が敬愛(よりは親愛の方が強いのだけれど)してやまない稀代のSF作家である伊藤計劃が、作家としてデビューする前から日々の中で感じていたことを記していた「伊藤計劃:第二位相」である。

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/

2009年に34歳という若さで夭逝した伊藤は、このブログの中で映画・書籍・ゲームといったカルチャーや、そこから派生して科学や政治といったアカデミックな部分に触れており、膨大な「知」のアーカイブが覗える。特に映画に対する伊藤の思い入れは凄まじく、ある洋画の脚本を海外のサイトから拾いあげ英語から和訳を独自に行い日本語字幕(映画ファンには悪い意味でお馴染み戸田奈津子訳)の不自然さを面白おかしく指摘するなど、一つの記事を書くために厭わない労力としては少々行き過ぎているようなものもある。実は、そんな伊藤の小説作品を原作とする劇場アニメーション公開に合わせ、2015年に彼のブログ記事や映画評をまとめたはてなブログのサイトが公式に作成されていたりする。

http://itoh-archive.hatenablog.com/entry/about

この「伊藤計劃記録 はてな版」には彼のエッセイや対談をまとめたページがあり、その中に「人という物語」という題で寄せられたものがある。SF作家らしく徹底して科学的なアプローチでありながらも、人という存在をロマン主義的と言いたくなるような詩的に解釈するセンスは、「リメンバー・ミー」を制作したディズニー・ピクサーのスタンスに通じるところがある。実のところ、冒頭の引用はそれが理由でもある。

そして、このエッセイの中で伊藤の解釈する「人という物語」がストレートに具現化したものが「ブログ」なのではないだろうか。すでにこの世にはいない人のブログを読むということは、それ自体がどうしようもなく「その人」というフィクションを身に宿すダイレクトな行為なのではないだろうか。個人的な読みを許してもらえるのなら、それはつまり死者を語り続けるかぎり、死者は死なないということだ。紋切り型な「みんなの心の中に生きている」という言葉も、こうして遠回りしてから改めて口にしてみると、決して陳腐化しているとは言えない。

私が伊藤計劃の存在を知ったのはすでに彼が亡くなった後だった。それでも今、私はこうして彼の望むように彼を語っている。もしかすると、それは伊藤だけではなく死者の誰しもが望むことなのかもしれない。ブログは、そういう構造を必然的に含んでいるのではないだろうか。

 

以上。読書感想の方の最新記事と「リメンバー・ミー」の感想を読み合わせればまあこんな感じにまとまるのかな、という感じ。

以前からわたしが伊藤を好きなことは所々で触れていますが、まあそのへんの思いと自分の死者に対するスタンスのようなものをまとめた文章でしょうか。字数制限でかなり端折ったんですが、別に完全版を書こうという気力などは特になく・・・。

 

そんなわけで羞恥プレイ終わり。

TV killed movie car

「インド旅する銀幕の映画館」

アナプの家は3代続く「移動映画館」。映写機は85年間、トラックは75年間使い続けた年代物だ。アナブは名門大学を卒業したエリート。別の職業を選ぶ事もできたが、映画が好きで、上映会で喜ぶお客さんが好きで、皆で映画を共有する空気感が好きなのでこの家業を継いだ。しかし地方では欠かせなかった移動映画館も今や風前のともし火。全くもうけにならない家業をこれ以上続けられるのか。インドの変化を移動映画館から見つめる

インドの移動映画館のドキュメンタリー。再放送ではあるんですが、ものすごく演出過剰で笑ってしまいました。最終的に移動映画館を廃業することになりアナプが「ジ・エンドです」と言った直後から流れる感動げな音楽の演出。映画の看板の前から人が消えていく演出。「廃れたのはなぜか」という問いに対して「テレビがあるからだと思う」という発言をテレビで流すというバツの悪さ。NHKの編集スタッフはどう思ったのだろうか。まあこれを映画館で流されてもそれはそれで困るのだけれど、なんというかモヤモヤする。

インド映画といえば最近は「バーフバリ」がかなーりカルト的人気を博していますが、大幅カットされているということと前作をまだ観ていないということもあって「バーフバリ」は観に行ってないのですが、正直観たいよー。

 

あと「オリバー・ストーン オン プーチン」っていうオリバー・ストーンプーチンに取材したドキュメントもやっていたんですが、少なくともNHKで放送されていたものを見る限りでは完全にオリバー・ストーンプーチンにあしらわれていましたな。ああ言えば上祐といった感じでのらりくらりと躱されていて、結局のところプーチンの強権さを証明してしまっているような感じに。

○○すぎる~~という相対的なディス

よく○○すぎる~~という言葉を耳にする。

特に多いのが「美人すぎる~~」

これって相対的に~~の部分にカテゴライズされる人々が往々にして美人ではないということを言っているだけでなく、その「美人すぎる~~」の美人とされる当の本人にさえ「~~としては美人」という言外に蔑視のニュアンスが含まれているのだけれど、その辺に関して世間の人はどう考えているのだろう。

 

だって美人すぎる女優とは言わないでしょう。それは、女優というのは美人であるという暗黙の了解があるからで、美人すぎるなんて付けようものなら意味が重複してしまいますもの。だから、美人じゃない女優のことは往々にして「個性派」と呼んで差別化しているわけだ。じゃあ顔の良い女優は個性的ではないのか、という反論もできてしまうわけですけど、まあ片桐はいりと同じ空気感を他の女優が出せるかと言ったらそうでもないだろうけど。

何が言いたいかというと、「美人すぎる~~」というのは逆説的に~~の部分を見下しているということ。

とか書いてたら「美人すぎるアイドル」とかいう言葉を目撃してビックリ。どうも自分の感覚が世間からズレているようです。

いやーでも1000年に一度とか、あれはまあキャッチーなフレーズだからというだけで本当に1000年に一度かどうかなんていうのを調査したわけではないことはわかっていつつも、それでいいのかと思わなくもないわけで。

そうえいば「美しすぎるカードゲーム」とかいう、修飾語と被修飾語の関係性にズレを感じるフレーズがありましたな。EXILEというのがより笑いを誘うのですが、仮に「カードゲーム」という名詞を「美しい」と修飾する場合の美しさって何なんだろうか。「美しすぎるカード」ならまだイメージできなくもないけれど、「カードゲーム」となると途端に「美しさ」の尺度が不明瞭になってくる。

挙手する女性たち

 

女性たち、という部分がすでにアレか。ケヴィン・スペイシーのことを考えると人たちにしないと。

 

「#Me Too」が話題になっている。これに関してカトリーヌ・ドルーヴ批判していたりして、不謹慎ながら色々と混沌とした状況になっていて面白いのだけれど、日本でもはあちゅうという人(この人について何も知らないんですが)のツイートなんかが取りざたされた(されたのか?)りしたわけで、特に映画業界から端を発したということもあってわたしもゴシップ的に楽しんでいたわけですが、それとは別に何か奇妙な感覚を抱いていた。で、それがゴールデングローブ賞の一件やジェームズ・フランコまでがそういうセクハラ(ていうか参照した記事の内容が本当ならほとんどレイプなんですが)に及んでいたという記事を読んで、改めてこの一連の騒動における自分の奇妙な感覚について考えを深めてみた。

 

ただまあ、もしもこの記事を目にする人がいたとしたら、どんなにわたしが前置きをして予防線を張っておいても糾弾するだろう。それはまあ覚悟の上ではあるし、おそらくはその糾弾は倫理として正しいことなのだろうけれど、これから書こうとしていることは倫理のレベルの話じゃないとだけは言っておきたい。

 

そんな予防線を張った上で、奇妙な感覚について、その正体がどのようなものだったかということなのだけれど、簡単にまとめてしまうとこのムーブメントを傍から見ているとすごく「ダサい」のだ。

何がダサいのか、と問われれば一言だけ「便乗する姿勢」と言い添えるだけなのですが、倫理というレベルにおいてしか語る余地のないこの騒動においてこれほど被害者たちを逆なでする言葉もないだろう。

そりゃもちろん、それはお前が騒動とはまるっきり外にいるからだ(文明社会に属している以上は他人事ではないのですけど)とか、被害者の気持ちがわからないからそんなこと言えるのだとか、まあ正論で反論しようと思えばいくらでもできる。それが感情論だろうとなんだろうと。効率、という話を持ち出すと余計な批判にさらされる上にそれを良しとしているシステムとか社会構造にまで話を広げないといけなくなるのでしませんが(そもそも、そこまで知見がない)。そういう問題じゃない、と言われればそれまでだし。ま、前提としてすでにわたしが既述しているんですけど、それについては。

自分がもし被害者だったら同じような行動を取るだろうし・・・・・いや、どうだろう。自分は結構反射的に反撃してしまうタイプだから、そもそもMETOOみたいな後出しという形式にならないかもしれないけれど。

でもね、騒動のきっかけとなった最初の数人はともかくとして、そのあとに続く何百何千何万という被害を訴える声は、あまりに「虎の威を借る狐」ならぬ「数の威を借る狐」のように見えてダサいのだ。この世の中、セクハラ・パワハラは他人事ではなく明日は我が身であると考えてはいるけれど、第三者の目にはこうもダサく写ってしまうのかと苦笑いしてしまう自分もいる。

虎の威を借る狐ということわざは批判的な意味として用いるわけですが、それがなぜかといえば、ある側面において醜い・・・とまではいかずともダサいとみなされるからだ。「#Me Too」というのはまさにこの言葉の示すとおりであって、後ろ盾となるパワーが異なるだけで性質としては同じものだと思う。別に威張ってるわけではないし被害を白日のもとに晒すことは重要なことではあるんですけど、あげられた反撃の狼煙の源がほとんど外界に依拠しているという様相が、傍観者の目線からするとダサい。

そういう後ろ盾を使ってもダサく見えないのは、それに自覚的であるかどうかだと自分は思います。この騒動は別にスポーツでもなければ創作の話でもないので、この意見がそもそも的外れだってことは重々承知なんですが、どうも有象無象の愚衆が一である自分には、愚衆の愚衆たる愚衆性をあけっぴろげにしているようで居た堪れなくなる。勝手に居た堪れなくなってろ、という話ですが。

 

多分だけど、カトリーヌの発言というのはそのへんの女性としての部分よりも人間性の美醜として、あまりに便乗する女性が多いことに苦言を呈したかったんじゃないかなーと思うのですよね。それとも、そういう権力の傘の下にいたから、なのか。

 

ま、所詮はただの傍観者でしかない卑怯者の戯言ではありますが、こういう小癪な意見を持ったパンピーもいるということ事実をネットの世界の片隅にちょこんと残しておくくらいのことはしてもバチは当たるめぇと思ったので。

 

www.buzzfeed.com

 

ちなみにざっと参照した記事をいくつか上げておきますん。

4つ目の記事にある「ぼくのりりっくのぼうよみ」氏に関しては伊藤計劃トリビュート関連であまり良い印象を持っていないので、たとえそれが正論であろうとなんだろうと「でもお前は伊藤計劃のこと大して好きじゃないだろ」みたいなやっかみを抱いてしまう。そんなわたしはダメ人間。

 

すごいどうでもいいんだけれど、もしもセクハラをしたのが黄色人種や黒人で、被害を受けた人が実は人種差別主義者だと後から判明したりしたら、世間の人たちはどう反応するんだろうか。

 異なる正義のぶつけ合いとして「それはそれ、これはこれ」という風になるのだろうけど、 その論法はわたしの「ダサい」論にも使えませんかね? あ、使えないですか。そうですか。

思考の汚染

 

ハイパー資本主義は宗教改革にはじまる:「GDPR:データとインターネット〜EUが描く未来」第3回|WIRED.jp

そういえば、イーガンの短編にも似たようなのがあったっけ。

物理的な距離によって(それだけじゃないけど)思考が染まっていくというのはおもしろいよなぁと思いつつ、この記事に書かれていることが結構怖い。

 

 

 

結局、世の中を変えることはできるのか

事実は小説よりも奇なり。ほとんどフィクショナルな物語と呼べるほどに過酷で残酷で、それゆえにその中に光明を見出すという、映画顔負けの事実だった。

NHKの「時間が止まった私 えん罪が奪った7352日 」番組を見ていて、やっぱり映画とか小説とか、そういうものじゃ社会を変えることなんてできないんだろうかと思ったわけである。そんなものは当たり前だろうが、と冷ややかな視線を向けてくる自分ももちろん以前からいたんですけれど、この番組を見てその思いというか諦観みたいなものを乗せた方の秤が傾き始めた。

SFなんてあれだけわかりやすく警句としての未来を描いているのに、そっちの世界に向かいつつあるんじゃないかと思ったりもするわけで。

 なんてことを「ショーシャンク~」を観たあとの今のわたしにとっては、ブルックスの最期を観てしまった今のわたしにとっては、青木さん・・・というか現状の社会システムに対する疑念はもはや義憤に近い。

 

ちなみに番組の概要は↓こんな感じ

20年以上にわたり社会から隔絶されていた女性が、再び社会に放り出されたとき、どんなことに直面するのか、あなたは、想像することができるだろうか。
8歳だった息子は29歳になっていた。60代だった両親は、80歳を過ぎ、介護を必要としていた。そして自分自身も31歳から51歳になっていた。20年前には、インターネットも携帯電話も普及していなかった。家電の使い方もわからない、別世界からタイムスリップをしてきた感覚に襲われ、彼女はとうとう、こうつぶやく。「刑務所に戻りたい・・・」。
これはすべて、大阪に住む、青木惠子さんの身に起こったことである。青木さんは、娘殺しの母親という汚名を着せられていた。1995年、小学6年生だった娘を、夫と共謀し保険金目的で焼死させた疑いで、無期懲役を受けたのである。受刑しながら、裁判のやり直しを訴え、ついに、2016年、えん罪が証明され、無罪判決が下されたのだった。
これは、20年という途方もない長い時間の中で失ったものを少しでも取り戻そうとする、ひとりの女性の再生の物語である。

  

この説明文だけでも結構キツイものがあるんですけれど、本編はもっと壮絶なことが起こる。で、今回のエントリーではそこにも触れていくので、ネタバレ(?)回避したい人は21日の再放送まで待たれるといいかもしれんです。

 

さて、この番組に関して色々と思うところがあったわけですが、やはりひとつには「冤罪」というテーマ以上に、その「冤罪」という状況に巻き込まれた青木さん個人のケースがあまりに残酷すぎることはあるでしょう。

青木さんの場合は「冤罪によって投獄」されただけでなく、偶発的な事故でしかなかった(少なくとも法律上は)愛娘の死の責任を負わされてしまいました。これは他者の死や傷を不当に背負わされるよりも辛いことであるはずです。なにせ、自分の知らないうちに死んでしまった娘を悼むことすらできず、ただただ警察の事情聴取という名の恐喝(青木さんの手記によると、内縁の夫が娘に性的虐待を行っていたことを告げられ、女として見られていなかったのではないかと言われた、とありました)に怯えるしかなく、あまつさえやってもいないことを認めなくてはならない悔しさに苛まれなければならなかったのですから。

わたしのような人間が青木さんの胸中を推し量ることなどできませんし、誰ひとりとして知る人のいない寄すがなき密室で国家権力に恫喝されるということは、想像するだけで身がすくみますし、本当にやっていなかったとしてもその状況から脱したいがために首を縦に振るという心理は理解できます。

 

しかし、もっとも深刻だったのはむしろ無罪を勝ち取ったあとの、番組のカメラが収めていた部分です。

急速に進歩するテクノロジーを知らずに格子の内側にいた青木さんは、携帯もインターネットも使いこなすことはできず、この経験から人間不信に陥り・20年を社会から隔絶された場所で過ごしたがゆえに対人の仕事が困難であることから、早朝のポストインの仕事をしている。

そして、31歳のまま停止した感覚は、彼女の着るものをその停止した感覚相応の服装に仕立て上げる。50歳をこえた女性が身を包むに服としては、いささか派手にも見受けられる。これに関しては、そもそも「年相応」という固定観念なる幻想を大衆があまりに考えなしに受容しているという問題もあると思うのですが。

 あるいは、死んでしまった娘の代わりと言わんばかりに(というか青木さん本人が言ってるんだけど)、彼女の好きだったとうもろこしを食べたり好きだった黄色が好きになったりと、もはや呪いとしか形容できない代替行為。もしも最初から事故としてこの件が扱われていたらどうなったのだろうと思わずにはいられない。

 

けれど、これはまだ彼女個人と社会の問題でしかない。

このあとの、青木さんの家族との関係が更に衝撃的なものだった。幼少期から青年期までの人間形成に重要な20年を接することができなかった息子とのコミュニケーションの拙さ、80を越えて助けを必要とする両親との諍いから一人暮らしをしなければならない孤独。娘を信じることができず面会にも行かなかった両親との軋轢は、そう簡単に埋まるものではないでしょう。

青木さんだけでなく、彼女を取り巻く、彼女を取り巻いていた環境が歳月と誤謬によって歪に捻じ曲げられてしまったわけです。

 

そんなある日、認知症の母親が家を出ていってしまい、青木さんの息子とその嫁も含めて家族総出で探すことになるのですが・・・。

なんというか、フィクションでないからこそなのでしょうが、青木さんの母は川に流されて遺体で発見されてしまうのです。

ただ、その母を捜す間だけは、青木さんの一家は一丸となっていた部分は確かにありました。「母を捜す」という目的に向かって。この辺で、やや感動げ(一概には言えないのですが)なBGMが番組の演出として流れるのですが、かならずしも喜ばしいことではないというような抑えたBGMは良かったと思います。これを変に感動BGMで装飾しようものなら、それこそ感動ポルノの軛に落とし込むことになりますから。

身内がいなくならなければまともに集まることもない瓦解した家族。母親の犠牲によって、幾らかのきっかけを手にしたものの、この先がどうなるかはわかりません。

 

そんなものは青木さん本人が決めることとはわかっていつつも、彼女が死ぬまでの残り数十年の人生は、わたしにとっては煉獄とも思えるのです。

社会によって追い込まれ社会に適応できず延々と彷徨うことしかできない人生に、どう向き合っていくのか。 

 これをレアケースと割り切って、そのまま何も変わることなく現行社会は存続していくのか。

最近の例として取り上げますが、座間の殺人事件に関する評論家の人の意見があった。

「座間の殺人事件のような例は本当に極めてレアケースであって、だからこそここまでニュースとして取り上げられているのであって、現在のSNSの状況が悪いというわけではなく規制を進めるというのは単純である」というようなことを言っていた。

それはそうだ。自分も、それには同意見だ。けれど、果たして同じことを座間の事件で殺された人たちの前で、その遺族の前で、あるいは青木さんの目の前で言えるのだろうか。

この評論家の言っていることはマクロな視点だ。その視点を持つことは、社会を語る上で必要なことだし、メディアに出る以上は必要以上に個人に肩入れすることもできないのだろう。

だからこそ、わたしのような一介の個人は疑義を呈する必要があるんじゃないか、と思うわけです。「それでいいのか」と。

もちろん、どんなに社会をよくしようとしたところで、その中で犠牲になる人はでてくるし、それを一々すくいあげていたらキリがない。それこそ、SFにおけるユートピアディストピアのように一人一人を完全に統御できるような世界でなければそういった個々の犠牲をなくすことはできないだろう。もっとも、そんな世界で個人が個人として生きていく意味があるのかという、二律背反はあるのだけれど。

でも、だからこそわたしたちは考え続ける必要があるんじゃなかろうか。 

 

 

 

さて、冤罪といえば国内でこれまで冤罪が認められたケースは青木さんを含めて9件だけなそうな(もしかしたら間違えているかもしれないので、再放送の時に確かめてみますが)。手元に有る資料では「弘前大学教授夫人殺し事件」「加藤老(これに関しては後述)」「免田事件」「財田川事件」「松山事件」「徳島ラジオ商殺し事件」「島田事件」「足利事件」の8件が載っていて、最後の「足利事件」の再審による無罪判決が出たのが2010年のことだから、多分青木さんのケースをいれて9件というのは間違いなのだろうけれど。そう考えると、確かに死刑制度の賛否に対する議論になるということもわかります。私自身は、どちらかといえば死刑制度に賛成(といっても、生まれた時からそれが当然だったから、という程度のものでしかないので、恐ろしいほどに薄弱な賛意ではあるので、そのときどきによってどちらにもブレますが)ですが、罪もない人を国が殺す可能性があるということですし。

ちなみに、上記に挙げた事件のうちで「免田事件」「財田川事件」「松山事件」「島田事件」の4件では死刑判決が下されている。つまり、もしかするとこの4人は死んでいたかもしれないわけです、無実の罪で。

さらにいえば、これは再審が認められて(これ自体がかなり困難らしい)その上で無罪判決を勝ち取らなければいけないわけで、そう言われると極刑を考えなしに肯定することはできないですよねぇ。

そんなものは端数だから、というのは既述のとおりメディアに出るような人たちの考えであるわけで、わたしのような個人はそういうひとつひとつのケースを大切に見据えてあげないといけないんですから。

また、気になったのは息子との面会はできなかったのかということ。20年ぶりに再会したというナレーションのニュアンスや青山さんの話から服役中に面会していないような口ぶりでしたし。あれは、やっぱり親戚が止めていたのだろうか。そのくせ息子に暴力をふるっていたというのだから、よくわからない。

 

で、冤罪については、痴漢冤罪を例に挙げる前にもっと大きな事例があったりするのだけれど、上述した「加藤老事件」が個人的には印象に残っているんだけれど、これって日本史とかでやるんだろうか。わたしは 高校時代の政治経済の授業で扱って、先生が話してくれたことを覚えているのでこうして例に挙げることができるのだけれど。

単純な年月という部分で見れば、この「加藤老事件」は青木さんのケースよりも甚大で、加藤さんは24歳から86歳までの62年間を無実の罪で服役していた。妻は去り、父親の死を獄中で知り、娘の結婚生活も父親の冤罪ゆえに破綻した。

と。こんなものを知って、どうして個人に肩入れせずにいられるだろうか。

 

とはいえ、この考えが行き過ぎると今度は大流を見失うことになるわけです。ひとつ言えることは、マクロにせよミクロにせよ、視野狭窄に陥らないようにしなければならないような考え方をしなければならないということでっしゃろか。

 

ジューダイって何よ

問題定期することによって別の問題か顕在化するんだなぁと思った。

あと定義のポップ化とでも呼びたくなるような、なんというかこう、意味の空洞化というかなんというか。

 

こう、思考がとりとめなくて放置している間に何を考えていたかわからなくなってきた。