dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

やっぱり身勝手だよなー人って

 去年の秋頃のプレイボーイで読みたい記事があったのでバックナンバーを買って読んでいたのだが、リリーフランキーの相談コーナーのようなものがあった。

 あった、というか、初めてプレイボーイをまともに読んだので気づいただけなのだが、それを読んでいてなんとなく勝手にリリーフランキーに対して落胆している自分がいることに気づいた。

 なんでかなーとふと考えてみたら、たぶん、一種の偶像崇拝のようなものだったのかもしれない。つまり、サウスパークでジーザスを演じ、美しい星でエイリアン(仮)を演じ、水10なんかでうまくさばき、仙人じみた雰囲気を漂わせているフランキーにわたしは少なからず超人的な精神性を勝手に見出していたのかもしれない。それこそ、相談コーナーを持っているということもそういった証左ではないかと。

 だから、この人が結局のところ「芸能人」としての視点しか持ち合わせていないことに少しがっかりしてしまったのだ。たった一つの記事を読んだだけで決め付けるわたしの視野狭窄具合はこの際棚に上げるとしても、アイドルの大変さとか自分自身の体験を引き合いに出してしまうことに、パンピーの視点が欠如している。

 そりゃ確かにアイドルがこの先何十年も芸能界で食っていけるかどうかなんてわからないけれど、それは商社に勤めていたって同じことだろう。リスクの差分はあったとしても。

 むしろ、芸能界はパンピーにとっての憧れの場所で、たとえ一瞬でも輝けるのならばそれでもいいと思うパンピーだっているはずだ。まあ、最近はSNSとかそもそものテレビの体質とかも相まってメディアの内側がとても卑近なものになってきていて、もはや憧憬や羨望というものが逓減している気がしなくもないけど。

 というか、これにかぎらず芸能人がパンピーの相談に応じるものって、一種の洗脳なんじゃないかって思う。憧憬や羨望が逓減していると書いたばかりだけれど、やっぱり芸能人や芸能界というものをパンピーは一種の桃源郷とまではいかずとも承認欲求を満たしてくれる舞台としての幻想構築を果たしてくれる場所として見てしまう部分はあるだろう。

 で、一般人とは別の位相にある(と思い込んでいる)芸能人を神格化してしまう。だから芸能人の言葉を鵜呑みにしてしまうような人がいる。

 しかしよく考えてみると、一般人が芸能人に相談する理由はなんだろう。「芸能界なんて伏魔殿でやってきた〇〇さんなら自分の悩みに対するヒントを持っているかもしれない」とか、そんなとこだろうか。そうでなくとも、もっと下心とか芸能人に会ってみたいとかそんなもんもあるかもしれない。

 だけど、普通に考えて一般社会とは違う位相にいる芸能人が一般人の悩みに応えられるのか? もちろん、恋の相談とか結婚とか人間としての観点から応えられる悩みはあるだろうけれど、たとえばそれが特定の「会社」とか外部環境に左右されるものだとしたら、芸能人の言葉になんの意味があるのだろう。

 コートの中で試合をしているのが相談者とするなら、相談に応じる芸能人はコートの外から指示を出すコーチという関係性なのだろうか。いや、そんなことはない。むしろ「もっとそっち空いてるだろ」なんて野次を飛ばしてくる観客の贅言と大差ないのではないだろうか。

 もちろん、そのコミュニティの外部からしか見えてこないものもあるから、全てが無意味だとか野次だとかこじつけるつもりはない。けれど、もっと具体的な答えを欲しているのなら相談する相手はむしろ身近な人間か、類似したコミュニティにいる者ではないだろうか。少なくとも、芸能人にだけ相談してそれを鵜呑みにするというのはいかがなものか。

 毒を以て毒を制すではないけれど、「芸能界もこんな〇〇な感じだから、大してパンピー世界と変わらないよ」という慰めでもって芸能界への幻想を壊してやることで諦観させるというやり方もあるだろう。というか、フランキーのはそれっぽい。

 それってなんの解決にもなってなくない? そりゃそうでしょ。誰かに相談すれば悩みが解決するなんて、そんなに世の中甘くない。アディーレとかなら、解決しれくれるんかもしれんけど、それが具体性のある相談だからだ。

 

 すごい余談なんですが、わたしのリリーフランキーに対するこの考え方ってすごい危険な上に本質的にドルオタなんかと変わらないんですよね。誰かに勝手なイメージを抱いて勝手に落胆する。これって、誰しもあることだとは思う(え、そんなことない?)。こういうふうなことを考えていくと、他者の行動への嫌悪感って究極的には「自己嫌悪」に収斂していくんじゃないだろうか。