dadalizerの雑ソウ記

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結局、世の中を変えることはできるのか

事実は小説よりも奇なり。ほとんどフィクショナルな物語と呼べるほどに過酷で残酷で、それゆえにその中に光明を見出すという、映画顔負けの事実だった。

NHKの「時間が止まった私 えん罪が奪った7352日 」番組を見ていて、やっぱり映画とか小説とか、そういうものじゃ社会を変えることなんてできないんだろうかと思ったわけである。そんなものは当たり前だろうが、と冷ややかな視線を向けてくる自分ももちろん以前からいたんですけれど、この番組を見てその思いというか諦観みたいなものを乗せた方の秤が傾き始めた。

SFなんてあれだけわかりやすく警句としての未来を描いているのに、そっちの世界に向かいつつあるんじゃないかと思ったりもするわけで。

 なんてことを「ショーシャンク~」を観たあとの今のわたしにとっては、ブルックスの最期を観てしまった今のわたしにとっては、青木さん・・・というか現状の社会システムに対する疑念はもはや義憤に近い。

 

ちなみに番組の概要は↓こんな感じ

20年以上にわたり社会から隔絶されていた女性が、再び社会に放り出されたとき、どんなことに直面するのか、あなたは、想像することができるだろうか。
8歳だった息子は29歳になっていた。60代だった両親は、80歳を過ぎ、介護を必要としていた。そして自分自身も31歳から51歳になっていた。20年前には、インターネットも携帯電話も普及していなかった。家電の使い方もわからない、別世界からタイムスリップをしてきた感覚に襲われ、彼女はとうとう、こうつぶやく。「刑務所に戻りたい・・・」。
これはすべて、大阪に住む、青木惠子さんの身に起こったことである。青木さんは、娘殺しの母親という汚名を着せられていた。1995年、小学6年生だった娘を、夫と共謀し保険金目的で焼死させた疑いで、無期懲役を受けたのである。受刑しながら、裁判のやり直しを訴え、ついに、2016年、えん罪が証明され、無罪判決が下されたのだった。
これは、20年という途方もない長い時間の中で失ったものを少しでも取り戻そうとする、ひとりの女性の再生の物語である。

  

この説明文だけでも結構キツイものがあるんですけれど、本編はもっと壮絶なことが起こる。で、今回のエントリーではそこにも触れていくので、ネタバレ(?)回避したい人は21日の再放送まで待たれるといいかもしれんです。

 

さて、この番組に関して色々と思うところがあったわけですが、やはりひとつには「冤罪」というテーマ以上に、その「冤罪」という状況に巻き込まれた青木さん個人のケースがあまりに残酷すぎることはあるでしょう。

青木さんの場合は「冤罪によって投獄」されただけでなく、偶発的な事故でしかなかった(少なくとも法律上は)愛娘の死の責任を負わされてしまいました。これは他者の死や傷を不当に背負わされるよりも辛いことであるはずです。なにせ、自分の知らないうちに死んでしまった娘を悼むことすらできず、ただただ警察の事情聴取という名の恐喝(青木さんの手記によると、内縁の夫が娘に性的虐待を行っていたことを告げられ、女として見られていなかったのではないかと言われた、とありました)に怯えるしかなく、あまつさえやってもいないことを認めなくてはならない悔しさに苛まれなければならなかったのですから。

わたしのような人間が青木さんの胸中を推し量ることなどできませんし、誰ひとりとして知る人のいない寄すがなき密室で国家権力に恫喝されるということは、想像するだけで身がすくみますし、本当にやっていなかったとしてもその状況から脱したいがために首を縦に振るという心理は理解できます。

 

しかし、もっとも深刻だったのはむしろ無罪を勝ち取ったあとの、番組のカメラが収めていた部分です。

急速に進歩するテクノロジーを知らずに格子の内側にいた青木さんは、携帯もインターネットも使いこなすことはできず、この経験から人間不信に陥り・20年を社会から隔絶された場所で過ごしたがゆえに対人の仕事が困難であることから、早朝のポストインの仕事をしている。

そして、31歳のまま停止した感覚は、彼女の着るものをその停止した感覚相応の服装に仕立て上げる。50歳をこえた女性が身を包むに服としては、いささか派手にも見受けられる。これに関しては、そもそも「年相応」という固定観念なる幻想を大衆があまりに考えなしに受容しているという問題もあると思うのですが。

 あるいは、死んでしまった娘の代わりと言わんばかりに(というか青木さん本人が言ってるんだけど)、彼女の好きだったとうもろこしを食べたり好きだった黄色が好きになったりと、もはや呪いとしか形容できない代替行為。もしも最初から事故としてこの件が扱われていたらどうなったのだろうと思わずにはいられない。

 

けれど、これはまだ彼女個人と社会の問題でしかない。

このあとの、青木さんの家族との関係が更に衝撃的なものだった。幼少期から青年期までの人間形成に重要な20年を接することができなかった息子とのコミュニケーションの拙さ、80を越えて助けを必要とする両親との諍いから一人暮らしをしなければならない孤独。娘を信じることができず面会にも行かなかった両親との軋轢は、そう簡単に埋まるものではないでしょう。

青木さんだけでなく、彼女を取り巻く、彼女を取り巻いていた環境が歳月と誤謬によって歪に捻じ曲げられてしまったわけです。

 

そんなある日、認知症の母親が家を出ていってしまい、青木さんの息子とその嫁も含めて家族総出で探すことになるのですが・・・。

なんというか、フィクションでないからこそなのでしょうが、青木さんの母は川に流されて遺体で発見されてしまうのです。

ただ、その母を捜す間だけは、青木さんの一家は一丸となっていた部分は確かにありました。「母を捜す」という目的に向かって。この辺で、やや感動げ(一概には言えないのですが)なBGMが番組の演出として流れるのですが、かならずしも喜ばしいことではないというような抑えたBGMは良かったと思います。これを変に感動BGMで装飾しようものなら、それこそ感動ポルノの軛に落とし込むことになりますから。

身内がいなくならなければまともに集まることもない瓦解した家族。母親の犠牲によって、幾らかのきっかけを手にしたものの、この先がどうなるかはわかりません。

 

そんなものは青木さん本人が決めることとはわかっていつつも、彼女が死ぬまでの残り数十年の人生は、わたしにとっては煉獄とも思えるのです。

社会によって追い込まれ社会に適応できず延々と彷徨うことしかできない人生に、どう向き合っていくのか。 

 これをレアケースと割り切って、そのまま何も変わることなく現行社会は存続していくのか。

最近の例として取り上げますが、座間の殺人事件に関する評論家の人の意見があった。

「座間の殺人事件のような例は本当に極めてレアケースであって、だからこそここまでニュースとして取り上げられているのであって、現在のSNSの状況が悪いというわけではなく規制を進めるというのは単純である」というようなことを言っていた。

それはそうだ。自分も、それには同意見だ。けれど、果たして同じことを座間の事件で殺された人たちの前で、その遺族の前で、あるいは青木さんの目の前で言えるのだろうか。

この評論家の言っていることはマクロな視点だ。その視点を持つことは、社会を語る上で必要なことだし、メディアに出る以上は必要以上に個人に肩入れすることもできないのだろう。

だからこそ、わたしのような一介の個人は疑義を呈する必要があるんじゃないか、と思うわけです。「それでいいのか」と。

もちろん、どんなに社会をよくしようとしたところで、その中で犠牲になる人はでてくるし、それを一々すくいあげていたらキリがない。それこそ、SFにおけるユートピアディストピアのように一人一人を完全に統御できるような世界でなければそういった個々の犠牲をなくすことはできないだろう。もっとも、そんな世界で個人が個人として生きていく意味があるのかという、二律背反はあるのだけれど。

でも、だからこそわたしたちは考え続ける必要があるんじゃなかろうか。 

 

 

 

さて、冤罪といえば国内でこれまで冤罪が認められたケースは青木さんを含めて9件だけなそうな(もしかしたら間違えているかもしれないので、再放送の時に確かめてみますが)。手元に有る資料では「弘前大学教授夫人殺し事件」「加藤老(これに関しては後述)」「免田事件」「財田川事件」「松山事件」「徳島ラジオ商殺し事件」「島田事件」「足利事件」の8件が載っていて、最後の「足利事件」の再審による無罪判決が出たのが2010年のことだから、多分青木さんのケースをいれて9件というのは間違いなのだろうけれど。そう考えると、確かに死刑制度の賛否に対する議論になるということもわかります。私自身は、どちらかといえば死刑制度に賛成(といっても、生まれた時からそれが当然だったから、という程度のものでしかないので、恐ろしいほどに薄弱な賛意ではあるので、そのときどきによってどちらにもブレますが)ですが、罪もない人を国が殺す可能性があるということですし。

ちなみに、上記に挙げた事件のうちで「免田事件」「財田川事件」「松山事件」「島田事件」の4件では死刑判決が下されている。つまり、もしかするとこの4人は死んでいたかもしれないわけです、無実の罪で。

さらにいえば、これは再審が認められて(これ自体がかなり困難らしい)その上で無罪判決を勝ち取らなければいけないわけで、そう言われると極刑を考えなしに肯定することはできないですよねぇ。

そんなものは端数だから、というのは既述のとおりメディアに出るような人たちの考えであるわけで、わたしのような個人はそういうひとつひとつのケースを大切に見据えてあげないといけないんですから。

また、気になったのは息子との面会はできなかったのかということ。20年ぶりに再会したというナレーションのニュアンスや青山さんの話から服役中に面会していないような口ぶりでしたし。あれは、やっぱり親戚が止めていたのだろうか。そのくせ息子に暴力をふるっていたというのだから、よくわからない。

 

で、冤罪については、痴漢冤罪を例に挙げる前にもっと大きな事例があったりするのだけれど、上述した「加藤老事件」が個人的には印象に残っているんだけれど、これって日本史とかでやるんだろうか。わたしは 高校時代の政治経済の授業で扱って、先生が話してくれたことを覚えているのでこうして例に挙げることができるのだけれど。

単純な年月という部分で見れば、この「加藤老事件」は青木さんのケースよりも甚大で、加藤さんは24歳から86歳までの62年間を無実の罪で服役していた。妻は去り、父親の死を獄中で知り、娘の結婚生活も父親の冤罪ゆえに破綻した。

と。こんなものを知って、どうして個人に肩入れせずにいられるだろうか。

 

とはいえ、この考えが行き過ぎると今度は大流を見失うことになるわけです。ひとつ言えることは、マクロにせよミクロにせよ、視野狭窄に陥らないようにしなければならないような考え方をしなければならないということでっしゃろか。