dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

無神論者、宗教を擁護する


 破滅願望むき出しのファンダメンタリストしかり、isisしかり、もちろん我が国におけるオウム真理教しかり。とまあ他者への脅威をもたらす奴輩からヘブンズ・ゲート(は宗教じゃなくてカルトか)といった集団自殺による自己完結で終わる連中までいる。

 どうしてそうなるのかといえば、ある人は「宗教は考える力を奪うからそうやって考えなしに迷惑を振りまく(意訳(ってほど意訳でもないが))」と言った。その人はスタンダップコメディアン無神論者であるジム・ジェフリーズの話題を取り上げた。

 ジム・ジェフリーズは地球を線路、社会を列車にたとえて以下のように小噺をする。

 列車(社会)は前進しなくてはならない。止まってしまったら我々はたち
まち止まった列車(社会)の周りにあるだけの資源を食いつぶしてしまうから。そして立ち止まってしまった列車は二度と動かなくなってしまう。だから列車は動かし続けにゃいかんのだ。列車の先頭車両には、運行を仕切っている人たちが乗っている。この社会においてそれは科学者だ。科学者が作った薬、編み出した手術などによって以前よりずっと長く生きることができるようになった。新たなエネルギーをもたらしてくれるのも科学者だ。より効率的に働く機械を作るのはエンジニアたちで、彼らもまた科学者。ここで重要なのは、ほとんどの科学者は無神論者だということだ。

 

 とまあ、ここまでは納得できる。かなり怜悧な視線だとは思うが、ぶっちゃけ事実ではあるだろうし。映画「トゥモロー・ランド」は才能のあるものが世界を牽引し、才能なき者はそのおこぼれに預かるのが世界の真理であるというような論を展開する。

 たしかにエンターテイメントにおいてそんな主張をする作品はそっぽを向かれるだろうけれど(というか中だるみする部分があったりと、そもそも映画として退屈な部分があるのは否めないのだが)、わたしには体重計の数字から目を背ける肥満と同じ精神行動に思える。だって、それってまごう事なき事実だし。

 つーか頭いいやつって基本的に頭悪い奴のこと見下してますからね。こんなこともわからないのかって。自分はちょうど両者の中間にいるので、どちらの気持ちもわかりますですが。

そんなわけでここまでは割と同意を示せるのだが、どっこい、このあとが少しひっかかる。 

 

ところが前から二番目の車両に乗っているのは不可知論者だ。優柔不断のアホども。やつらは二番目の車両で「(神が存在するかしないかなんて)はっきりしない」と駄々をこねている。連中はまた「ビッグ・バンがあったなら、それを起こしたのは誰なんだ?」だとか「わたしは宗教的なのではない。スピリチュアルな人間なんだ」なんてのたまう。

 

 宗教依存者ではない不可知論者に対してもこれだけ辛辣なのですが、宗教依存者についてはもっと酷薄なことを述べています。

 個人的には、不可知論者のスタンスは科学哲学である反証可能性に近いのではないかと思っているので、むしろいい塩梅だと思うんですがね。そりゃまあ「知覚できるものがすべて」とまで言いだしたらどうしようもないですけど。

 で、宗教依存者へのお言葉は↓こんな感じ。

 三番目の車両は、最初の二両を合わせて五十倍にしたくらい巨大だ。そこに残りの人類が乗っている。イスラム教徒だとかユダヤ教徒だとか。どいつもこいつもお祈りしながら踊ってる。そういう輩があまりにも多くて重いから列車は前に進めない。だから機関室にいる人はこう考える。「もし、先頭車両と二両目以降を繋いでいる連結器を外すことができたらどれだけ列車をスピードアップさせることができるだろうか?」と

 

 

 うーん、翻訳もかなりほかからの手助けをしてもらったくらい英語がわからなければこの人についても実のところあまりよくは知らないので、これだけを間に受けるのはいかがなものかと思うのです(この言動は彼にとって仕事でもありますから)が、少なからず宗教依存者に対して嫌悪感を抱いていることは事実でしょう。

 でもこれって、差別じゃなきゃなんなのか。

 彼は科学者を敬い宗教依存者≒神を信じるものを蔑む。この人の発言には意図的か無意識的にかわからないが、重要な論点がすっぽり抜けている。この人に限らないのだけれど。

 その論点というのは、その両方に立つ人のことだ。科学者であり神を信じる人。ジム・ジェフリーズは科学者のほとんどは無神論者といったが、そもそもそれは根拠のある言葉なのだろうか。

 国連が行った面白い調査がある。

 

www.epochtimes.jp

 

 この記事では、過去300年の間に素晴らしい功績を残した科学者を対象に、神を信じるものがどれだけいたのかを調査した結果が記述されている。で、八割以上の科学者が神を信じているという調査結果が出ている。

 まあ地域別に見たりするとかなり結果にバラつきが出そうな気もしますが、これを科学者の大半が無神論者であるというジェフリーへのカウンターの論拠として援用することはできるだろう。

 もちろん、彼の二の轍を踏まないように、わたし自身も慎重に考えなければならない。つまり、どちらが先かという問題もそこには含まれているからだ。科学を探求しているうちに神の存在を見出すようになったのか、神を信じその正体へと近づくために科学に傾倒したのか、とか。どちらにせよなんらかの絶対的な存在に注目していることはたしかだが、プロセスを蔑ろにすることはできない。

 わたしがここで言いたいのは、宗教依存者を批判するのであれば、神を見出す・見出そうとしたことで科学に貢献してきた人もいるということを語らなければ不公平でなないか、ということだ。たとえそれが誤差のような少数の特例であったとしても、それをすくいあげるのがポリコレじゃないのか? それらをこぼしてしまえば、それこそマイノリティ批判に繋がるではないか。それどころか、国連調査だとマジョリティですらあるかもしれないのだから。

 わたしが知っている中にも、素数だったか万物の理論だったかを研究している数学者が、神の存在を数字の中に見出していたはずだ。名前忘れたけど。

 

 たしかに、宗教依存者が見る神と科学者が見る神は違うかもしれないが、だとすればなおさら慎重に語るべきではないか。そもそも科学の始まりからして宗教は重要な位置を占めているのに、なぜ宗教を悪とみなすのか。逆に問いたいのだけれど「宗教」という明確なものでないだけで、日常の中に宗教的な行動=考えずに取る行動を起こさせるものがまったくないと言い切れるだろうか。それを考えないということこそ、宗教的な行動じゃないのかしら。

 うーん、しかしそうなるとルーティーンやアルゴリズムまで宗教的行動としてみなされてしまいかねないんだすよね。案外、線引きが難しい問題だ。

 前々から思ってはいたんだけど、目下、遠藤周作の「沈黙」を読んでいて宗教とその内部にいる者の葛藤がすごい面白かったので吐き出しておくことにした次第ですたい。普通に小説として面白いから、そのうち読書感想文の方でも書きたいな。 

 

 あとまあ、科学崇拝・知識崇拝・学力崇拝っていうのも肌で感じている部分があったりするので、そのへんにもちょっと触れたい気もするんだけど面倒なので気が向いたらにしよう。