dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

我非信者

いやーびっくり。

いや、玩具の情報サイトだからある程度仕方ないとは言え最後の騎士王を褒めている人が多くて愕然とした。

あまつさえストーリーがちゃんとしていたとかのたまってる連中までいたし。

や、映画感想ブログのほうで散々最後の騎士王については書いたから発散したつもりだったんですけど、これだけ盲目的な信者がいるのを目にするとねぇ……

ビーのスピンオフとかどうでもいいとか書いておきながら、こうなると映画としての完成度を思考停止の信者どもに見せつけてやっていかに新シリーズがダメ映画なのかってことを思い知らせてやって欲しい。

うん、まあ、より強固な信仰になるだけだろうけど

情報偏


 最近、東大生をフィーチャーした番組が増えてきている。

 国内最高峰の学力を誇る大学であるわけだから、テレビを見るような層にしてみれば「わかりやすい」のだろう。「全米が泣いた」とか「全米ナンバーワン(実は初週のみ)大ヒット」と同じで、東大というわかりやすいブランドを売りにしているわけだ。

「東大かーちょっと見てみようかなぁ」という心理が働くのだろう。いや、個人的にはその心理はわかるようでわからないのだけれど。

 けれど、テレビで華々しく活躍している東大生を消費していきながら、目下のところ東大が抱えている問題に目を向けるものはそんなに多くない。

 一体どれだけのテレビ視聴者が東大が下記のような問題に目を向けているのだろうか。

「東大が無期転換を阻害している」労組、非正規教職員8000人の雇用危機訴える - 弁護士ドットコム

 そもそも多様性云々という気運が高まっているなかで、未だに学歴主義を助長するようなメディアの使い方をしているというのもいかがなものか。それは国内の大学だけに向けられたものではなく、たとえばハーバード大学と言えば名前を聞いただけで「おー」となるだろうけれど、ブラウン大学と聞いてどれくらいの人が「おぉー」となるだろうか。海の向こうのことなんて、あまり気にかける必要もないのだろうが。

 

なんかまとまりのない記事になってしまった。

 

追記

 で、なんでそうなるのかなーと考えたときに、情報を取得するためのプロセスがSNS、というかインターネットの普及で変容したからなんじゃないかと推察したのであった。あとはまあ単純にバイアスの問題でもあるのだろうが。

 mgsシリーズでお馴染みの小島秀夫監督(だったかな)が、『最近は「好きな〇〇」だけで完結してしまって、それに関連するものに手を出したりすることが少ない』というような意味のことを言っていた。

 簡単に言えば「みんなゴジラは知ってるけど(よしんば円谷英二は知っていたとしても)本多猪四郎のことは(あんまり)知らないよね」っていうこと。ゴジラの場合はゴジラというネームがそれに付随する核という大きな社会問題と結びつくことで、「ゴジラ」という部分だけが製作者や映画作品という前提となる概念から切り離されて語られることが多くなってしまった。その結果、名前は知っているけどその実態を知らないということになってしまった。ゴジラの監督である本多猪四郎のほかの作品を知っている人はどれくらいいるだろうか。

もっとも、半世紀以上も前の一映画作品を見る機会なっていうものは、よほどの機会がなければ普通はないのだが。

 ただ、最近の情報取得のプロセスは、それがより顕著で能動的になってきているような気がする。

 基本的に情報というやつはそれそのものだけで完結するものはないと思うのだけれど、ウェブが発達した現代では部分的に抽出された情報だけを簡単に手に入れることができてしまうのでは。

 たとえば「東大 クイズ」というワードで検索すれば、それに関連する情報だけが差し出される。実際のところ、大局的・社会的意義という見地からすると東大に関連するファクターとして「クイズ」などというのは(というとクイズに失礼なんでっしゃろが)瑣末なことでしかないのだけれど。ノイジーマイノリティというのも、たぶんこの辺の問題が関連しているんじゃなかろうか。

 別に今も昔も、誰だって調べたいことを調べるというのは変わらないのだと思うのだけれど、今の場合は思いがけない情報との出会いというものが起こりにくいんじゃないかしらしらしら。なんて書きながら、むしろ技術的には、より「ある情報」に関連する情報というものに触れることは容易になっているはずでは、と思い直す。

Amazonで何かを注文したりカートに入れると、「これを買った人はこんなものも買っています」といった感じで情報の深度が増す。ほかにも、ある動画を見ていて関連動画を樹形図的に飛んでいくことで全く知らない何かに到達するなんてこともあるだろうし。ということを書いた直後に、またまた思い直す。でも、これって結局のところ自分の関心のある部分だけがより一層浮かび上がってくるだけで幅が広がることとは違うんじゃないかなと。

 

 まああれです。みんな色眼鏡というかバイアスを通してしか情報を見れないということですな。どれだけネットに膨大な情報があっても、それとどうすくい取るのかは恣意性による。言うなれば、ざるの網の部分が関心の部分であり、網の目というのが関心のない部分であり情報がこぼれていく穴であるということ。で、自分にとって都合のよいい濾された情報だけが手元に残ってしまう。しかも大抵はそれで満足してしまうため情報に広がりができない。

 Twitterというのは、そういう意味では広がりを持たせてくれるツールでもあるのだけれど、一方で身内を固めるだけの馴れ合いの場になってしまいかねない危険性も同時にはらんでいるような気がする。Twitterやってないから完全に憶測ですが。

 

 あーなんか思っていることをうまく言語化出来ていない気がする。

やっぱり身勝手だよなー人って

 去年の秋頃のプレイボーイで読みたい記事があったのでバックナンバーを買って読んでいたのだが、リリーフランキーの相談コーナーのようなものがあった。

 あった、というか、初めてプレイボーイをまともに読んだので気づいただけなのだが、それを読んでいてなんとなく勝手にリリーフランキーに対して落胆している自分がいることに気づいた。

 なんでかなーとふと考えてみたら、たぶん、一種の偶像崇拝のようなものだったのかもしれない。つまり、サウスパークでジーザスを演じ、美しい星でエイリアン(仮)を演じ、水10なんかでうまくさばき、仙人じみた雰囲気を漂わせているフランキーにわたしは少なからず超人的な精神性を勝手に見出していたのかもしれない。それこそ、相談コーナーを持っているということもそういった証左ではないかと。

 だから、この人が結局のところ「芸能人」としての視点しか持ち合わせていないことに少しがっかりしてしまったのだ。たった一つの記事を読んだだけで決め付けるわたしの視野狭窄具合はこの際棚に上げるとしても、アイドルの大変さとか自分自身の体験を引き合いに出してしまうことに、パンピーの視点が欠如している。

 そりゃ確かにアイドルがこの先何十年も芸能界で食っていけるかどうかなんてわからないけれど、それは商社に勤めていたって同じことだろう。リスクの差分はあったとしても。

 むしろ、芸能界はパンピーにとっての憧れの場所で、たとえ一瞬でも輝けるのならばそれでもいいと思うパンピーだっているはずだ。まあ、最近はSNSとかそもそものテレビの体質とかも相まってメディアの内側がとても卑近なものになってきていて、もはや憧憬や羨望というものが逓減している気がしなくもないけど。

 というか、これにかぎらず芸能人がパンピーの相談に応じるものって、一種の洗脳なんじゃないかって思う。憧憬や羨望が逓減していると書いたばかりだけれど、やっぱり芸能人や芸能界というものをパンピーは一種の桃源郷とまではいかずとも承認欲求を満たしてくれる舞台としての幻想構築を果たしてくれる場所として見てしまう部分はあるだろう。

 で、一般人とは別の位相にある(と思い込んでいる)芸能人を神格化してしまう。だから芸能人の言葉を鵜呑みにしてしまうような人がいる。

 しかしよく考えてみると、一般人が芸能人に相談する理由はなんだろう。「芸能界なんて伏魔殿でやってきた〇〇さんなら自分の悩みに対するヒントを持っているかもしれない」とか、そんなとこだろうか。そうでなくとも、もっと下心とか芸能人に会ってみたいとかそんなもんもあるかもしれない。

 だけど、普通に考えて一般社会とは違う位相にいる芸能人が一般人の悩みに応えられるのか? もちろん、恋の相談とか結婚とか人間としての観点から応えられる悩みはあるだろうけれど、たとえばそれが特定の「会社」とか外部環境に左右されるものだとしたら、芸能人の言葉になんの意味があるのだろう。

 コートの中で試合をしているのが相談者とするなら、相談に応じる芸能人はコートの外から指示を出すコーチという関係性なのだろうか。いや、そんなことはない。むしろ「もっとそっち空いてるだろ」なんて野次を飛ばしてくる観客の贅言と大差ないのではないだろうか。

 もちろん、そのコミュニティの外部からしか見えてこないものもあるから、全てが無意味だとか野次だとかこじつけるつもりはない。けれど、もっと具体的な答えを欲しているのなら相談する相手はむしろ身近な人間か、類似したコミュニティにいる者ではないだろうか。少なくとも、芸能人にだけ相談してそれを鵜呑みにするというのはいかがなものか。

 毒を以て毒を制すではないけれど、「芸能界もこんな〇〇な感じだから、大してパンピー世界と変わらないよ」という慰めでもって芸能界への幻想を壊してやることで諦観させるというやり方もあるだろう。というか、フランキーのはそれっぽい。

 それってなんの解決にもなってなくない? そりゃそうでしょ。誰かに相談すれば悩みが解決するなんて、そんなに世の中甘くない。アディーレとかなら、解決しれくれるんかもしれんけど、それが具体性のある相談だからだ。

 

 すごい余談なんですが、わたしのリリーフランキーに対するこの考え方ってすごい危険な上に本質的にドルオタなんかと変わらないんですよね。誰かに勝手なイメージを抱いて勝手に落胆する。これって、誰しもあることだとは思う(え、そんなことない?)。こういうふうなことを考えていくと、他者の行動への嫌悪感って究極的には「自己嫌悪」に収斂していくんじゃないだろうか。

呪詛:教授は改行がお嫌い

ふと、大学時代の教授が言っていたことを思い出した。

 自分で小説を書いて発表するっていう恥と外聞(はまあほかの学部に伝わるわけでもないので外聞はそうでもないか)を飼い慣らさなきゃならん授業があったのです。

 で、その授業の中で教授が「わたしはねー、小説の改行ってやつが嫌いなんですよ。あれやるとなんか雰囲気が出ると思ってるでしょう」とまあ、完全書き起こしではないし記憶があやふやなので大意ではあるんですが、まあともかく小説内の改行というやつが嫌いらしかった。

 いやいや。どうすんの、それ。大半の小説嫌いじゃんすか。虐殺器官なんて二行目でアウトじゃんすか。

 もちろん、そこには色々な文脈があるのだろうけど、そのことについて詳しい部分を知らないわたしの中には「先生は改行がお嫌い」という情報だけがインプットされてしまったわけです。

 その弊害なのか、趣味で小説を書くときに改行の使うときにすごい後ろめたいものがあるのです。

 改行しようとするたびに手が止まりそうになる、この何気ない一言による楔というのは中々厄介です。

 こういうのを、言葉の力とか言霊というのだろうか。なんて思った、今日この頃。

 

伊藤計劃について考える

 この頃、伊藤計劃にハマっている。死後に彼の作品に触れたのだけれど、まーぶっちゃけてしまうと彼の作品である「虐殺器官」と「ハーモニー」に関しては初めて読んだときはちんぷんかんぷんだった(ハーモニーはそうでもないか)。「屍者の帝国」に関しても伊藤計劃の下地があったということを鑑みると、やはりあれもいまいち理解したとは言い難い気がする。もちろん、それに関してはちゃんと理由がある。言い訳じみているのだけれど、恥部を晒すと思って勘弁してもらいたい。わたしは彼の作品に接触したとき、それまでの人生でそれほど本を読んだことがなかった。おそらく、両手の指で数え切れる程度だっただろうと思う。だから、本の読み方があまりわからなかったし、単に読みきれなかっただけなので作品批判ではないのは承知の上で、作品の魅力がわからなかった。ていうか、今でも読書に関しては下手の横好きでしかないと思う。どうでもいいけどイーガンとか全部理解できている読者って何人いるのよ? や、それを抜きにしてもイーガンは読んでてめっちゃワクワクするんですけどね。

 さてさて、前置きが長くなってしまったけれど、これがわたしと伊藤計劃との出会いだった。で、ここ一年くらいの間に本を読んだり映画を見るようになって、買ったままほとんど読んでいなかった(ガメラの部分だけ読んでいた)「伊藤計劃記録」「伊藤計劃記録 第二位相」を読んだのだった。

 で、完全にこの人に惚れた。卓抜した知性(その醜さも含め。というかそれこそ、わたしが彼のもっとも好む部分なんですが)と膨大な知識でもって、幅広い分野をユーモラスに語るその人に、わたしは惚れた。

 けれど、おそらくは世の大半の人が伊藤計劃に対して抱く憧憬や評価というものは、自分の抱くそれと異なっている気がする。というか、気がすることに最近気づいて、それがなにかなんとなく今日わかった。

 たぶん、彼の周囲の人間、とりわけSF作家(メディア問わず)にとって伊藤計劃という人間を見るときに彼をSFとしてSF作家として見ている比重がとても大きいのではないかと思う。だからこそ、SF界隈では彼の名前が刻まれているのだろうし、それは事実である。

 たしかに、自分もSFが好きだ。けれど、わたしが伊藤計劃を見る視線は、多く人のそれとは違う。わたしが伊藤計劃を好むのは、ほかの人がそうであるよりは、たぶんウェイトが違う。

 どういうことかというと、わたしがすきなのは「SF作家伊藤計劃」よりも「フリークス伊藤計劃」が好きであるということ。

 フリークとしての自己の醜悪さに対する怜悧でありながら感傷的で感情的な部分。そしてフリークを自覚した上でなおそんな自分を肯定・否定する弁証法的に二律背反を飲み込むその姿勢。

 異世界モノとやらが跋扈し、オタクがもはやオタクたりえない今現在にあって、わたしの疎外感は彼に強烈なシンパシーを見出すのは当然のことだった。逆説的だけれど、その本質が「オタク的」でありながらなぜ伊藤計劃がSF界隈でSF作家としての側面ばかりがフィーチャーされるのか、ということが見えた気がする。

 実際に会ったことすらないけれど、実際に会った多くの人よりは「フリークス伊藤計劃」に共感できるのではないかと思う。それほど、合致する。

 誰かに対して一元的な見方をするなんてことはないし、多くの伊藤計劃フォロワーや愛好家だってそれは変わらない。けれど、その多くは彼の才能にピントを合わせているように思えてならない。

 つまり、伊藤計劃とはその認知度や功績とは裏腹に、かなり一側面的にしか語られていないのではないかと思う。それはとりもなおさず、彼がSF作家としてあまりに偉大すぎるてその人間としての語り口が豊富でもあるがゆえなのだろうけれど、わたしはその「SF作家伊藤計劃」に埋もれがちな「別の伊藤計劃」すなわち「フリークス伊藤計劃」「自己嫌悪する伊藤計劃」「それでも自分大好きな伊藤計劃」「キモオタ伊藤計劃」が好きだ。

 いわゆるオタクこそ伊藤計劃に見入りそうなものだけれど、どうしてオタクは伊藤計劃に注目しないのか。理由はいくつか考察できるけれど、それはべつにいい。そうなる今のオタクがどうとか、そういう話に少なからず突っ込むことになるし、それは面倒だから。

 自分の考えに対する自己弁護というか、論の補強として、小路啓之を援用できる気がする。

 わたしの最も好きな漫画作家に小路啓之(去年に事故で亡くなってしまいました。結構ショックだった)がいますがなぜSF作家である伊藤計劃と、一見すると映画好きという共通点以外にあまり接点を見いだせそうにない二人が自分にとって特別な存在であるのか。それはやっぱり、二人ともがフリークスだったからだと思う。

 ようやく、本当にようやく自分の好きな、自分の得意なものを見つけることができたんだと思う。それが履歴書に書けないものであっても、ようやく見つけることができたことは素直に嬉しい。

Say hello to world !

 映画と読書に関する自己言及だけだと、どうも自分の思想に対する思考漏れが生じているような気がしたので、日々の思ったことなどを映画・読書のブログとは別に書こうと思ふ。

 いやね、別にまとめブログなんかで溢れているわけでね、2ちゃんに直接書き込まなくてもアングラ(だった)話題を共有できるわけで、だったら今更わざわざブログなんて始めなくてもいいんですよ。まとめブログの記事に直接コメントすれば、直接反応を受け取れるし。自分で記事を上げるいわゆるブログは、行動としてみれば能動的ですけど、他者と接するという場合には受身であるわけですよ。まとめブログっていうのは要するにテーマパークみたいなもので、色んな人の興味をひきつけるために色んな記事があるから、必然的に母数が大きくなってくる。それに対して、こっちのブログっていうのはむしろ記事の読み手に能動性が求められるんで、接触する人が少ないわけで、たくさんのコミュニケーションを取ろうとすると費用対効果が悪いわけですな。

 

 ただね、まとめブログの場合は相互作用としての「コミュニケーション」っていうのはほとんど在って無いようなもので、実質的には本当に「反応」ばっかりで「対話」にならないことが多いんですよね、まとめブログのコメントって。自分の場合、最近はよく考えてコメントをすることが多いんですが、そうなると文字数が多くなってきてしまうわけですね。で、そうすると「すごい早口で言ってそう」とか定型句で「反応」してくる輩がいるんですよ。ていうか大多数がそんな連中。

 もちろん、たまには真面目に反応してくれる人もいるわけですが、特定の言葉が使えなかったり文字数制限にひっかかったり、そもそも自分のブログでもないコメント欄で連綿とした対話をするにはノイズが多すぎるわけですよ。ていうかパレートの法則じゃないですけど、考えてコメントする人に対してノータリンの阿呆が多すぎる。

 あとはカテゴライズ・ジャンル特化型のまとめだとそもそも同じ記事の話題をしているのに会話が噛み合わなかったりとか。ていかジャンル特化のまとめブログのコメントってオタ気質で信者的な人間が多い(至極当然なのですが)くせに、以前オタクが持っていたジャンルへの造詣の深さが欠如している厄介な輩が多いために不必要な軋轢が生じるのですな。

 あと全体的に余裕がないというか攻撃的だったりするのが対話を阻害している。

 で、だったら能動的に動いて反応してくれる人に向けて自分で記事を書いた方がいいんじゃねーのということになるわけです。エネルギーは有限なんですから。

 

前置きがすごく長くなってしまったんで、書きたいことは次の記事に分けるべきでせうかね。