dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

若年信仰

 そういえば(って前置きもおかしなことだが)、前から考えていたことがある。

 よくメディアで取り上げられるキャッチコピーとして「若干〇〇歳にして」とか「最年少で〇〇」とか若人をフィーチャーすることが多い。それは学問・芸術・スポーツなど分野を問わず人口に膾炙している。

 「たった〇歳なのにこんなことができてすごい」「こんな賞をこの歳で取るなんて」と思わせるわけだ。どこのテレビ局とは言わないが、朝のニュース(笑)番組で全国の天才(この言葉も乱用されるせいで言葉の意味が陳腐化しているが)ちびっ子のところへと趣いて特技を披露させるコーナーが成立するくらいには(少なくともテレビ局のお偉方がゴーサインを出す程度には)そう思われている。

 これは時代や国を問わずに見られることだと思うのだけれど、よく考えてみるとこれってちょっと疑問が沸いてこないだろうか。

 自分としてはむしろ「若いのだからできて当然では?」と思うわけである。いや、できて当然まではさすがに思わないけれど「若いのに〇〇」ではなく「若いから〇〇」という方が腑に落ちる。

 こういう「若いのに〇〇」でいう「若さ」とは大体、下は幼児から上は大体20前後だろうか。もちろん分野や業界にもよるだろうけれど、大体そんなところのはず。

 その年齢って身体的に成長の段階からピークを迎える時期でしょう?要するにもっともあらゆる物事を吸収し進歩できる時期であるわけだ。そして20歳を超えたあたりからあとは山を下るだけになり能力が低下しはじめる。

 そう考えると「若いから」こそそれだけの記録が出せるのだ、というふうに考えるのがロジックに合っているじゃんすか。まして、技術や知識の蓄積と進歩によってより効率的な学習ができるようにもなってきているわけですし。いや、もちろん純粋な知識量とか情緒とかは時間の蓄積でもあるから一概には言えないんですけど。

 でも、やっぱり若いほど能力が研磨されていることには変わりない。たとえば言語に関する書籍を読んでみると分かることだが、赤ちゃんの脳を天才の脳として形容していることも少なくない。

 スポーツに関しては、肉体的に出来上がってくる18歳前後より下の年齢で記録を出すということは分からなくもないのだけれど、やっぱり「若いのに〇〇」(それに類する)というフレーズを無根拠に信用する気にはなれない。だってそれって、若さを信仰してるってことじゃんすか。若さ生活じゃんすか。

 で、どうにも違和感あるのは、この若さ信仰って「若さそ善、老いたるは悪」という排他の思考の片鱗のように思えてならないからだ。そうでなくとも、信仰っていうのは思考放棄で出されたものをそのまま受け入れることなんで危険なんですが。たとえば似非科学なんかいい例で、幽霊を信じないとか言っている人が水素水を信じていたりする。これも行き過ぎた科学信仰の一つだし。

 まあ普通に「若さ信仰」の実例を出すとすれば、「12歳の書いた量子力学の教科書」という書籍の例を挙げられる。書籍のタイトルが全てを物語っているが、この書籍の主眼は量子力学でなく12歳という部分にスポットが当てられている。で、久米宏のラジオに筆者がゲストで登場していた。案の定、筆者ヨイショのどっこいしょです。まあなんというか、わざわざゲストによんでおいて批判をするというのもおかしな話ですから当然といえば当然なんですが、この本を実際に読んだ一読者の感想を述べさせてもらえば、はっきり言って一つの書籍として評価するとお世辞にも上手いとは言えない。

 まかり間違っても教科書を名乗るような内容ではない。おそらくは出版社側の采配なのでしょうが、タイトル詐欺もいいところです。ちょっと調べただけでも誤謬がありましたから。読み手がわからないと思って推敲や調べをしていないのか、担当編集もわかっていないのか、あるいはやはり「12歳が書いた書籍(だからその努力をなるべく素地のまま出すために手を加えていないよ)」ということなのか。いずれにせよ、教科書と銘打っているのに誤謬を載せるのはメディアの信頼性としてどうなのだ。

 タイトルが「12歳の僕が量子力学について考えたこと」とかなんとか、そんな感じだったらわたしだって引き合いにだしませんがな。映画批評と称して実のところ感想でしかないあまたのブログもそうですが、もうちょっと言葉を慎重に使いませんかね。

 断っておきますが、筆者の努力や才覚を否定しているわけではありませんのことよ。まず12歳で量子力学なんて言葉を知っている時点で自分からすれば「どんだけ~」ということですから。

 ただ、その若さへの信仰心と書籍としての評価は切り離して考えなければならないということ。一つの書籍として出すには若さを免罪符にしてはならんのです。これと同じように、若さという言葉を考えなしに使ってはいけないと思うのですよ。「若いのにすごい」ではなく「若いからすごい」ということだって世の中にはあるはずですから。

 これとは逆に最高齢で〇〇を達成というのがあるが、自分はむしろこちらの方がなんというか、情動として正しい気がするのだ。だって「老いてなお〇〇」っていう方が明らかにカタルシスがあるじゃないですか。

 だってそれって「老化」っつー死にゆく肉体に対する精神と肉体の努力と可能性の勝利でしょう?どう考えたってそっちの方が物語として感動的じゃん。

 少なくとも、若者の青春映画を観ているよりじーさんばーさんが活躍する映画の方がわたしは好きですよ。だって青春映画って、同年代の人以外にとっては懐古的なんだもの。別にそれが悪いってわけじゃない(自分も青春映画が嫌いなわけではない)けど、自分にとってはそれは過ぎ去ったものでしかなくて、それに耽溺するのはどうも自分の過去を否定することにも繋がりかねない(というか自分のひねくれた思考回路だとそうなる)気がするのです。だったら「年老いても自分もこうありたい」と思わせてくれるようなじーさんばーさんおっさんおじさんが活躍する映画を見るほうが未来志向的でいいじゃないですか。アルツハイマーの身内を抱えているとそ〜思いますよ、ええ。

 とはいえ、結果偏重も問題ですがプロセス偏重も問題ではあるのですがね。敢闘賞とか努力賞だって、それはもちろんあってしかるべきだとは思いますから。

 そんなわたしは山崎賢人より仲代達矢が好き。

 

 

 

 

 

ロック?パンク?

 ここ数年、ポリティカリーコレクトネスが取りざたされるようになってきている。

 そのおかげで(あるは弊害というべきなのか)、以前では俎上に載ることすらなかったことがしっかりと議題に上がるようになってきた。たとえば、女性を従属的・隷属的・性的なものを、まるで所与として当然のように描くようなことにクエスチョンを投げかけたりするようになったと。

 ジャンプの表紙だったか巻頭カラーだかで、そういうのがあったっけ。いや是非はともかく議論が活発になることはいいことだよなー。少なくとも、安易な萌えやエロに走るようなものは減っていってくれれば、質にこだわるコンテンツも増えてくるだろうと思っていたわけですよね。

 


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 とか思ってたらこの有様だよ。ネットサーフィンしてたら上のでかい広告が表示されとった。や、別に宣伝したいわけでなく、むしろ反時代的というか時代に逆行する退行心に嘲笑を向けているわけで。

ほかにも明らかに男性に向けた美少女の着せ替え?をメインにしたのとか、明らかに性の匂いをチラつかせたのがあったきが。

 いや待てよ、そういうのが頻繁に表示されるということはそういう広告を頻繁に踏んでいるということか…?

我非信者

いやーびっくり。

いや、玩具の情報サイトだからある程度仕方ないとは言え最後の騎士王を褒めている人が多くて愕然とした。

あまつさえストーリーがちゃんとしていたとかのたまってる連中までいたし。

や、映画感想ブログのほうで散々最後の騎士王については書いたから発散したつもりだったんですけど、これだけ盲目的な信者がいるのを目にするとねぇ……

ビーのスピンオフとかどうでもいいとか書いておきながら、こうなると映画としての完成度を思考停止の信者どもに見せつけてやっていかに新シリーズがダメ映画なのかってことを思い知らせてやって欲しい。

うん、まあ、より強固な信仰になるだけだろうけど

情報偏


 最近、東大生をフィーチャーした番組が増えてきている。

 国内最高峰の学力を誇る大学であるわけだから、テレビを見るような層にしてみれば「わかりやすい」のだろう。「全米が泣いた」とか「全米ナンバーワン(実は初週のみ)大ヒット」と同じで、東大というわかりやすいブランドを売りにしているわけだ。

「東大かーちょっと見てみようかなぁ」という心理が働くのだろう。いや、個人的にはその心理はわかるようでわからないのだけれど。

 けれど、テレビで華々しく活躍している東大生を消費していきながら、目下のところ東大が抱えている問題に目を向けるものはそんなに多くない。

 一体どれだけのテレビ視聴者が東大が下記のような問題に目を向けているのだろうか。

「東大が無期転換を阻害している」労組、非正規教職員8000人の雇用危機訴える - 弁護士ドットコム

 そもそも多様性云々という気運が高まっているなかで、未だに学歴主義を助長するようなメディアの使い方をしているというのもいかがなものか。それは国内の大学だけに向けられたものではなく、たとえばハーバード大学と言えば名前を聞いただけで「おー」となるだろうけれど、ブラウン大学と聞いてどれくらいの人が「おぉー」となるだろうか。海の向こうのことなんて、あまり気にかける必要もないのだろうが。

 

なんかまとまりのない記事になってしまった。

 

追記

 で、なんでそうなるのかなーと考えたときに、情報を取得するためのプロセスがSNS、というかインターネットの普及で変容したからなんじゃないかと推察したのであった。あとはまあ単純にバイアスの問題でもあるのだろうが。

 mgsシリーズでお馴染みの小島秀夫監督(だったかな)が、『最近は「好きな〇〇」だけで完結してしまって、それに関連するものに手を出したりすることが少ない』というような意味のことを言っていた。

 簡単に言えば「みんなゴジラは知ってるけど(よしんば円谷英二は知っていたとしても)本多猪四郎のことは(あんまり)知らないよね」っていうこと。ゴジラの場合はゴジラというネームがそれに付随する核という大きな社会問題と結びつくことで、「ゴジラ」という部分だけが製作者や映画作品という前提となる概念から切り離されて語られることが多くなってしまった。その結果、名前は知っているけどその実態を知らないということになってしまった。ゴジラの監督である本多猪四郎のほかの作品を知っている人はどれくらいいるだろうか。

もっとも、半世紀以上も前の一映画作品を見る機会なっていうものは、よほどの機会がなければ普通はないのだが。

 ただ、最近の情報取得のプロセスは、それがより顕著で能動的になってきているような気がする。

 基本的に情報というやつはそれそのものだけで完結するものはないと思うのだけれど、ウェブが発達した現代では部分的に抽出された情報だけを簡単に手に入れることができてしまうのでは。

 たとえば「東大 クイズ」というワードで検索すれば、それに関連する情報だけが差し出される。実際のところ、大局的・社会的意義という見地からすると東大に関連するファクターとして「クイズ」などというのは(というとクイズに失礼なんでっしゃろが)瑣末なことでしかないのだけれど。ノイジーマイノリティというのも、たぶんこの辺の問題が関連しているんじゃなかろうか。

 別に今も昔も、誰だって調べたいことを調べるというのは変わらないのだと思うのだけれど、今の場合は思いがけない情報との出会いというものが起こりにくいんじゃないかしらしらしら。なんて書きながら、むしろ技術的には、より「ある情報」に関連する情報というものに触れることは容易になっているはずでは、と思い直す。

Amazonで何かを注文したりカートに入れると、「これを買った人はこんなものも買っています」といった感じで情報の深度が増す。ほかにも、ある動画を見ていて関連動画を樹形図的に飛んでいくことで全く知らない何かに到達するなんてこともあるだろうし。ということを書いた直後に、またまた思い直す。でも、これって結局のところ自分の関心のある部分だけがより一層浮かび上がってくるだけで幅が広がることとは違うんじゃないかなと。

 

 まああれです。みんな色眼鏡というかバイアスを通してしか情報を見れないということですな。どれだけネットに膨大な情報があっても、それとどうすくい取るのかは恣意性による。言うなれば、ざるの網の部分が関心の部分であり、網の目というのが関心のない部分であり情報がこぼれていく穴であるということ。で、自分にとって都合のよいい濾された情報だけが手元に残ってしまう。しかも大抵はそれで満足してしまうため情報に広がりができない。

 Twitterというのは、そういう意味では広がりを持たせてくれるツールでもあるのだけれど、一方で身内を固めるだけの馴れ合いの場になってしまいかねない危険性も同時にはらんでいるような気がする。Twitterやってないから完全に憶測ですが。

 

 あーなんか思っていることをうまく言語化出来ていない気がする。

やっぱり身勝手だよなー人って

 去年の秋頃のプレイボーイで読みたい記事があったのでバックナンバーを買って読んでいたのだが、リリーフランキーの相談コーナーのようなものがあった。

 あった、というか、初めてプレイボーイをまともに読んだので気づいただけなのだが、それを読んでいてなんとなく勝手にリリーフランキーに対して落胆している自分がいることに気づいた。

 なんでかなーとふと考えてみたら、たぶん、一種の偶像崇拝のようなものだったのかもしれない。つまり、サウスパークでジーザスを演じ、美しい星でエイリアン(仮)を演じ、水10なんかでうまくさばき、仙人じみた雰囲気を漂わせているフランキーにわたしは少なからず超人的な精神性を勝手に見出していたのかもしれない。それこそ、相談コーナーを持っているということもそういった証左ではないかと。

 だから、この人が結局のところ「芸能人」としての視点しか持ち合わせていないことに少しがっかりしてしまったのだ。たった一つの記事を読んだだけで決め付けるわたしの視野狭窄具合はこの際棚に上げるとしても、アイドルの大変さとか自分自身の体験を引き合いに出してしまうことに、パンピーの視点が欠如している。

 そりゃ確かにアイドルがこの先何十年も芸能界で食っていけるかどうかなんてわからないけれど、それは商社に勤めていたって同じことだろう。リスクの差分はあったとしても。

 むしろ、芸能界はパンピーにとっての憧れの場所で、たとえ一瞬でも輝けるのならばそれでもいいと思うパンピーだっているはずだ。まあ、最近はSNSとかそもそものテレビの体質とかも相まってメディアの内側がとても卑近なものになってきていて、もはや憧憬や羨望というものが逓減している気がしなくもないけど。

 というか、これにかぎらず芸能人がパンピーの相談に応じるものって、一種の洗脳なんじゃないかって思う。憧憬や羨望が逓減していると書いたばかりだけれど、やっぱり芸能人や芸能界というものをパンピーは一種の桃源郷とまではいかずとも承認欲求を満たしてくれる舞台としての幻想構築を果たしてくれる場所として見てしまう部分はあるだろう。

 で、一般人とは別の位相にある(と思い込んでいる)芸能人を神格化してしまう。だから芸能人の言葉を鵜呑みにしてしまうような人がいる。

 しかしよく考えてみると、一般人が芸能人に相談する理由はなんだろう。「芸能界なんて伏魔殿でやってきた〇〇さんなら自分の悩みに対するヒントを持っているかもしれない」とか、そんなとこだろうか。そうでなくとも、もっと下心とか芸能人に会ってみたいとかそんなもんもあるかもしれない。

 だけど、普通に考えて一般社会とは違う位相にいる芸能人が一般人の悩みに応えられるのか? もちろん、恋の相談とか結婚とか人間としての観点から応えられる悩みはあるだろうけれど、たとえばそれが特定の「会社」とか外部環境に左右されるものだとしたら、芸能人の言葉になんの意味があるのだろう。

 コートの中で試合をしているのが相談者とするなら、相談に応じる芸能人はコートの外から指示を出すコーチという関係性なのだろうか。いや、そんなことはない。むしろ「もっとそっち空いてるだろ」なんて野次を飛ばしてくる観客の贅言と大差ないのではないだろうか。

 もちろん、そのコミュニティの外部からしか見えてこないものもあるから、全てが無意味だとか野次だとかこじつけるつもりはない。けれど、もっと具体的な答えを欲しているのなら相談する相手はむしろ身近な人間か、類似したコミュニティにいる者ではないだろうか。少なくとも、芸能人にだけ相談してそれを鵜呑みにするというのはいかがなものか。

 毒を以て毒を制すではないけれど、「芸能界もこんな〇〇な感じだから、大してパンピー世界と変わらないよ」という慰めでもって芸能界への幻想を壊してやることで諦観させるというやり方もあるだろう。というか、フランキーのはそれっぽい。

 それってなんの解決にもなってなくない? そりゃそうでしょ。誰かに相談すれば悩みが解決するなんて、そんなに世の中甘くない。アディーレとかなら、解決しれくれるんかもしれんけど、それが具体性のある相談だからだ。

 

 すごい余談なんですが、わたしのリリーフランキーに対するこの考え方ってすごい危険な上に本質的にドルオタなんかと変わらないんですよね。誰かに勝手なイメージを抱いて勝手に落胆する。これって、誰しもあることだとは思う(え、そんなことない?)。こういうふうなことを考えていくと、他者の行動への嫌悪感って究極的には「自己嫌悪」に収斂していくんじゃないだろうか。

呪詛:教授は改行がお嫌い

ふと、大学時代の教授が言っていたことを思い出した。

 自分で小説を書いて発表するっていう恥と外聞(はまあほかの学部に伝わるわけでもないので外聞はそうでもないか)を飼い慣らさなきゃならん授業があったのです。

 で、その授業の中で教授が「わたしはねー、小説の改行ってやつが嫌いなんですよ。あれやるとなんか雰囲気が出ると思ってるでしょう」とまあ、完全書き起こしではないし記憶があやふやなので大意ではあるんですが、まあともかく小説内の改行というやつが嫌いらしかった。

 いやいや。どうすんの、それ。大半の小説嫌いじゃんすか。虐殺器官なんて二行目でアウトじゃんすか。

 もちろん、そこには色々な文脈があるのだろうけど、そのことについて詳しい部分を知らないわたしの中には「先生は改行がお嫌い」という情報だけがインプットされてしまったわけです。

 その弊害なのか、趣味で小説を書くときに改行の使うときにすごい後ろめたいものがあるのです。

 改行しようとするたびに手が止まりそうになる、この何気ない一言による楔というのは中々厄介です。

 こういうのを、言葉の力とか言霊というのだろうか。なんて思った、今日この頃。