dadalizerの雑ソウ記

思ったことや感じたことを書き下し自分の中で消化するブログ

狡い

結局のところ、どいつもこいつも知ってること以上のことは言えないんですよね。

それとも、知っててあえて言わなかったんだろうか彼奴は。しかし、それは業界に身を置く一人の芸人(じゃなくてコメディアンと呼んだほうがいいのかしら)として「ドキュメンタル」に触れないのはどうなんだ。仮に知らなかったとして、自分の国の自分の領分のことを知らないのに批判しているのは失笑ものだし、知っていてあえて触れなかったのならそれこそ嘲笑ものである。

意図的にせよそうでないにせよ、自分のバイアスでしかモノを見れない人っていうのはマジョリティー側にいようがマイノリティー側にいようが害悪と言わざるを得ない。

まあなんとなくはわかっていたけど、彼奴はアメリカに憧れる逆weebとしての性質が強いのだろう。

マクロ視点でしか語れない奴は少数を見落とすだろうが、ミクロ視点でしか語れないやつだって立場が違うだけでやっていることは同じだ。結局、ネットで誹謗中傷しているやつと変わらないじゃんか。たとえ相手が本当に悪であろうと、強盗犯を殺人犯がごとく批難するのはお門違いだもの。

 

とはいえ、それに対する忖度・憂慮が行き過ぎた結果として自縄自縛・自己言葉狩りに陥っているのはそのとおりだろうけど。

 

無神論者、宗教を擁護する


 破滅願望むき出しのファンダメンタリストしかり、isisしかり、もちろん我が国におけるオウム真理教しかり。とまあ他者への脅威をもたらす奴輩からヘブンズ・ゲート(は宗教じゃなくてカルトか)といった集団自殺による自己完結で終わる連中までいる。

 どうしてそうなるのかといえば、ある人は「宗教は考える力を奪うからそうやって考えなしに迷惑を振りまく(意訳(ってほど意訳でもないが))」と言った。その人はスタンダップコメディアン無神論者であるジム・ジェフリーズの話題を取り上げた。

 ジム・ジェフリーズは地球を線路、社会を列車にたとえて以下のように小噺をする。

 列車(社会)は前進しなくてはならない。止まってしまったら我々はたち
まち止まった列車(社会)の周りにあるだけの資源を食いつぶしてしまうから。そして立ち止まってしまった列車は二度と動かなくなってしまう。だから列車は動かし続けにゃいかんのだ。列車の先頭車両には、運行を仕切っている人たちが乗っている。この社会においてそれは科学者だ。科学者が作った薬、編み出した手術などによって以前よりずっと長く生きることができるようになった。新たなエネルギーをもたらしてくれるのも科学者だ。より効率的に働く機械を作るのはエンジニアたちで、彼らもまた科学者。ここで重要なのは、ほとんどの科学者は無神論者だということだ。

 

 とまあ、ここまでは納得できる。かなり怜悧な視線だとは思うが、ぶっちゃけ事実ではあるだろうし。映画「トゥモロー・ランド」は才能のあるものが世界を牽引し、才能なき者はそのおこぼれに預かるのが世界の真理であるというような論を展開する。

 たしかにエンターテイメントにおいてそんな主張をする作品はそっぽを向かれるだろうけれど(というか中だるみする部分があったりと、そもそも映画として退屈な部分があるのは否めないのだが)、わたしには体重計の数字から目を背ける肥満と同じ精神行動に思える。だって、それってまごう事なき事実だし。

 つーか頭いいやつって基本的に頭悪い奴のこと見下してますからね。こんなこともわからないのかって。自分はちょうど両者の中間にいるので、どちらの気持ちもわかりますですが。

そんなわけでここまでは割と同意を示せるのだが、どっこい、このあとが少しひっかかる。 

 

ところが前から二番目の車両に乗っているのは不可知論者だ。優柔不断のアホども。やつらは二番目の車両で「(神が存在するかしないかなんて)はっきりしない」と駄々をこねている。連中はまた「ビッグ・バンがあったなら、それを起こしたのは誰なんだ?」だとか「わたしは宗教的なのではない。スピリチュアルな人間なんだ」なんてのたまう。

 

 宗教依存者ではない不可知論者に対してもこれだけ辛辣なのですが、宗教依存者についてはもっと酷薄なことを述べています。

 個人的には、不可知論者のスタンスは科学哲学である反証可能性に近いのではないかと思っているので、むしろいい塩梅だと思うんですがね。そりゃまあ「知覚できるものがすべて」とまで言いだしたらどうしようもないですけど。

 で、宗教依存者へのお言葉は↓こんな感じ。

 三番目の車両は、最初の二両を合わせて五十倍にしたくらい巨大だ。そこに残りの人類が乗っている。イスラム教徒だとかユダヤ教徒だとか。どいつもこいつもお祈りしながら踊ってる。そういう輩があまりにも多くて重いから列車は前に進めない。だから機関室にいる人はこう考える。「もし、先頭車両と二両目以降を繋いでいる連結器を外すことができたらどれだけ列車をスピードアップさせることができるだろうか?」と

 

 

 うーん、翻訳もかなりほかからの手助けをしてもらったくらい英語がわからなければこの人についても実のところあまりよくは知らないので、これだけを間に受けるのはいかがなものかと思うのです(この言動は彼にとって仕事でもありますから)が、少なからず宗教依存者に対して嫌悪感を抱いていることは事実でしょう。

 でもこれって、差別じゃなきゃなんなのか。

 彼は科学者を敬い宗教依存者≒神を信じるものを蔑む。この人の発言には意図的か無意識的にかわからないが、重要な論点がすっぽり抜けている。この人に限らないのだけれど。

 その論点というのは、その両方に立つ人のことだ。科学者であり神を信じる人。ジム・ジェフリーズは科学者のほとんどは無神論者といったが、そもそもそれは根拠のある言葉なのだろうか。

 国連が行った面白い調査がある。

 

www.epochtimes.jp

 

 この記事では、過去300年の間に素晴らしい功績を残した科学者を対象に、神を信じるものがどれだけいたのかを調査した結果が記述されている。で、八割以上の科学者が神を信じているという調査結果が出ている。

 まあ地域別に見たりするとかなり結果にバラつきが出そうな気もしますが、これを科学者の大半が無神論者であるというジェフリーへのカウンターの論拠として援用することはできるだろう。

 もちろん、彼の二の轍を踏まないように、わたし自身も慎重に考えなければならない。つまり、どちらが先かという問題もそこには含まれているからだ。科学を探求しているうちに神の存在を見出すようになったのか、神を信じその正体へと近づくために科学に傾倒したのか、とか。どちらにせよなんらかの絶対的な存在に注目していることはたしかだが、プロセスを蔑ろにすることはできない。

 わたしがここで言いたいのは、宗教依存者を批判するのであれば、神を見出す・見出そうとしたことで科学に貢献してきた人もいるということを語らなければ不公平でなないか、ということだ。たとえそれが誤差のような少数の特例であったとしても、それをすくいあげるのがポリコレじゃないのか? それらをこぼしてしまえば、それこそマイノリティ批判に繋がるではないか。それどころか、国連調査だとマジョリティですらあるかもしれないのだから。

 わたしが知っている中にも、素数だったか万物の理論だったかを研究している数学者が、神の存在を数字の中に見出していたはずだ。名前忘れたけど。

 

 たしかに、宗教依存者が見る神と科学者が見る神は違うかもしれないが、だとすればなおさら慎重に語るべきではないか。そもそも科学の始まりからして宗教は重要な位置を占めているのに、なぜ宗教を悪とみなすのか。逆に問いたいのだけれど「宗教」という明確なものでないだけで、日常の中に宗教的な行動=考えずに取る行動を起こさせるものがまったくないと言い切れるだろうか。それを考えないということこそ、宗教的な行動じゃないのかしら。

 うーん、しかしそうなるとルーティーンやアルゴリズムまで宗教的行動としてみなされてしまいかねないんだすよね。案外、線引きが難しい問題だ。

 前々から思ってはいたんだけど、目下、遠藤周作の「沈黙」を読んでいて宗教とその内部にいる者の葛藤がすごい面白かったので吐き出しておくことにした次第ですたい。普通に小説として面白いから、そのうち読書感想文の方でも書きたいな。 

 

 あとまあ、科学崇拝・知識崇拝・学力崇拝っていうのも肌で感じている部分があったりするので、そのへんにもちょっと触れたい気もするんだけど面倒なので気が向いたらにしよう。

 

若年信仰

 そういえば(って前置きもおかしなことだが)、前から考えていたことがある。

 よくメディアで取り上げられるキャッチコピーとして「若干〇〇歳にして」とか「最年少で〇〇」とか若人をフィーチャーすることが多い。それは学問・芸術・スポーツなど分野を問わず人口に膾炙している。

 「たった〇歳なのにこんなことができてすごい」「こんな賞をこの歳で取るなんて」と思わせるわけだ。どこのテレビ局とは言わないが、朝のニュース(笑)番組で全国の天才(この言葉も乱用されるせいで言葉の意味が陳腐化しているが)ちびっ子のところへと趣いて特技を披露させるコーナーが成立するくらいには(少なくともテレビ局のお偉方がゴーサインを出す程度には)そう思われている。

 これは時代や国を問わずに見られることだと思うのだけれど、よく考えてみるとこれってちょっと疑問が沸いてこないだろうか。

 自分としてはむしろ「若いのだからできて当然では?」と思うわけである。いや、できて当然まではさすがに思わないけれど「若いのに〇〇」ではなく「若いから〇〇」という方が腑に落ちる。

 こういう「若いのに〇〇」でいう「若さ」とは大体、下は幼児から上は大体20前後だろうか。もちろん分野や業界にもよるだろうけれど、大体そんなところのはず。

 その年齢って身体的に成長の段階からピークを迎える時期でしょう?要するにもっともあらゆる物事を吸収し進歩できる時期であるわけだ。そして20歳を超えたあたりからあとは山を下るだけになり能力が低下しはじめる。

 そう考えると「若いから」こそそれだけの記録が出せるのだ、というふうに考えるのがロジックに合っているじゃんすか。まして、技術や知識の蓄積と進歩によってより効率的な学習ができるようにもなってきているわけですし。いや、もちろん純粋な知識量とか情緒とかは時間の蓄積でもあるから一概には言えないんですけど。

 でも、やっぱり若いほど能力が研磨されていることには変わりない。たとえば言語に関する書籍を読んでみると分かることだが、赤ちゃんの脳を天才の脳として形容していることも少なくない。

 スポーツに関しては、肉体的に出来上がってくる18歳前後より下の年齢で記録を出すということは分からなくもないのだけれど、やっぱり「若いのに〇〇」(それに類する)というフレーズを無根拠に信用する気にはなれない。だってそれって、若さを信仰してるってことじゃんすか。若さ生活じゃんすか。

 で、どうにも違和感あるのは、この若さ信仰って「若さそ善、老いたるは悪」という排他の思考の片鱗のように思えてならないからだ。そうでなくとも、信仰っていうのは思考放棄で出されたものをそのまま受け入れることなんで危険なんですが。たとえば似非科学なんかいい例で、幽霊を信じないとか言っている人が水素水を信じていたりする。これも行き過ぎた科学信仰の一つだし。

 まあ普通に「若さ信仰」の実例を出すとすれば、「12歳の書いた量子力学の教科書」という書籍の例を挙げられる。書籍のタイトルが全てを物語っているが、この書籍の主眼は量子力学でなく12歳という部分にスポットが当てられている。で、久米宏のラジオに筆者がゲストで登場していた。案の定、筆者ヨイショのどっこいしょです。まあなんというか、わざわざゲストによんでおいて批判をするというのもおかしな話ですから当然といえば当然なんですが、この本を実際に読んだ一読者の感想を述べさせてもらえば、はっきり言って一つの書籍として評価するとお世辞にも上手いとは言えない。

 まかり間違っても教科書を名乗るような内容ではない。おそらくは出版社側の采配なのでしょうが、タイトル詐欺もいいところです。ちょっと調べただけでも誤謬がありましたから。読み手がわからないと思って推敲や調べをしていないのか、担当編集もわかっていないのか、あるいはやはり「12歳が書いた書籍(だからその努力をなるべく素地のまま出すために手を加えていないよ)」ということなのか。いずれにせよ、教科書と銘打っているのに誤謬を載せるのはメディアの信頼性としてどうなのだ。

 タイトルが「12歳の僕が量子力学について考えたこと」とかなんとか、そんな感じだったらわたしだって引き合いにだしませんがな。映画批評と称して実のところ感想でしかないあまたのブログもそうですが、もうちょっと言葉を慎重に使いませんかね。

 断っておきますが、筆者の努力や才覚を否定しているわけではありませんのことよ。まず12歳で量子力学なんて言葉を知っている時点で自分からすれば「どんだけ~」ということですから。

 ただ、その若さへの信仰心と書籍としての評価は切り離して考えなければならないということ。一つの書籍として出すには若さを免罪符にしてはならんのです。これと同じように、若さという言葉を考えなしに使ってはいけないと思うのですよ。「若いのにすごい」ではなく「若いからすごい」ということだって世の中にはあるはずですから。

 これとは逆に最高齢で〇〇を達成というのがあるが、自分はむしろこちらの方がなんというか、情動として正しい気がするのだ。だって「老いてなお〇〇」っていう方が明らかにカタルシスがあるじゃないですか。

 だってそれって「老化」っつー死にゆく肉体に対する精神と肉体の努力と可能性の勝利でしょう?どう考えたってそっちの方が物語として感動的じゃん。

 少なくとも、若者の青春映画を観ているよりじーさんばーさんが活躍する映画の方がわたしは好きですよ。だって青春映画って、同年代の人以外にとっては懐古的なんだもの。別にそれが悪いってわけじゃない(自分も青春映画が嫌いなわけではない)けど、自分にとってはそれは過ぎ去ったものでしかなくて、それに耽溺するのはどうも自分の過去を否定することにも繋がりかねない(というか自分のひねくれた思考回路だとそうなる)気がするのです。だったら「年老いても自分もこうありたい」と思わせてくれるようなじーさんばーさんおっさんおじさんが活躍する映画を見るほうが未来志向的でいいじゃないですか。アルツハイマーの身内を抱えているとそ〜思いますよ、ええ。

 とはいえ、結果偏重も問題ですがプロセス偏重も問題ではあるのですがね。敢闘賞とか努力賞だって、それはもちろんあってしかるべきだとは思いますから。

 そんなわたしは山崎賢人より仲代達矢が好き。

 

 

 

 

 

ロック?パンク?

 ここ数年、ポリティカリーコレクトネスが取りざたされるようになってきている。

 そのおかげで(あるは弊害というべきなのか)、以前では俎上に載ることすらなかったことがしっかりと議題に上がるようになってきた。たとえば、女性を従属的・隷属的・性的なものを、まるで所与として当然のように描くようなことにクエスチョンを投げかけたりするようになったと。

 ジャンプの表紙だったか巻頭カラーだかで、そういうのがあったっけ。いや是非はともかく議論が活発になることはいいことだよなー。少なくとも、安易な萌えやエロに走るようなものは減っていってくれれば、質にこだわるコンテンツも増えてくるだろうと思っていたわけですよね。

 


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 とか思ってたらこの有様だよ。ネットサーフィンしてたら上のでかい広告が表示されとった。や、別に宣伝したいわけでなく、むしろ反時代的というか時代に逆行する退行心に嘲笑を向けているわけで。

ほかにも明らかに男性に向けた美少女の着せ替え?をメインにしたのとか、明らかに性の匂いをチラつかせたのがあったきが。

 いや待てよ、そういうのが頻繁に表示されるということはそういう広告を頻繁に踏んでいるということか…?

我非信者

いやーびっくり。

いや、玩具の情報サイトだからある程度仕方ないとは言え最後の騎士王を褒めている人が多くて愕然とした。

あまつさえストーリーがちゃんとしていたとかのたまってる連中までいたし。

や、映画感想ブログのほうで散々最後の騎士王については書いたから発散したつもりだったんですけど、これだけ盲目的な信者がいるのを目にするとねぇ……

ビーのスピンオフとかどうでもいいとか書いておきながら、こうなると映画としての完成度を思考停止の信者どもに見せつけてやっていかに新シリーズがダメ映画なのかってことを思い知らせてやって欲しい。

うん、まあ、より強固な信仰になるだけだろうけど

情報偏


 最近、東大生をフィーチャーした番組が増えてきている。

 国内最高峰の学力を誇る大学であるわけだから、テレビを見るような層にしてみれば「わかりやすい」のだろう。「全米が泣いた」とか「全米ナンバーワン(実は初週のみ)大ヒット」と同じで、東大というわかりやすいブランドを売りにしているわけだ。

「東大かーちょっと見てみようかなぁ」という心理が働くのだろう。いや、個人的にはその心理はわかるようでわからないのだけれど。

 けれど、テレビで華々しく活躍している東大生を消費していきながら、目下のところ東大が抱えている問題に目を向けるものはそんなに多くない。

 一体どれだけのテレビ視聴者が東大が下記のような問題に目を向けているのだろうか。

「東大が無期転換を阻害している」労組、非正規教職員8000人の雇用危機訴える - 弁護士ドットコム

 そもそも多様性云々という気運が高まっているなかで、未だに学歴主義を助長するようなメディアの使い方をしているというのもいかがなものか。それは国内の大学だけに向けられたものではなく、たとえばハーバード大学と言えば名前を聞いただけで「おー」となるだろうけれど、ブラウン大学と聞いてどれくらいの人が「おぉー」となるだろうか。海の向こうのことなんて、あまり気にかける必要もないのだろうが。

 

なんかまとまりのない記事になってしまった。

 

追記

 で、なんでそうなるのかなーと考えたときに、情報を取得するためのプロセスがSNS、というかインターネットの普及で変容したからなんじゃないかと推察したのであった。あとはまあ単純にバイアスの問題でもあるのだろうが。

 mgsシリーズでお馴染みの小島秀夫監督(だったかな)が、『最近は「好きな〇〇」だけで完結してしまって、それに関連するものに手を出したりすることが少ない』というような意味のことを言っていた。

 簡単に言えば「みんなゴジラは知ってるけど(よしんば円谷英二は知っていたとしても)本多猪四郎のことは(あんまり)知らないよね」っていうこと。ゴジラの場合はゴジラというネームがそれに付随する核という大きな社会問題と結びつくことで、「ゴジラ」という部分だけが製作者や映画作品という前提となる概念から切り離されて語られることが多くなってしまった。その結果、名前は知っているけどその実態を知らないということになってしまった。ゴジラの監督である本多猪四郎のほかの作品を知っている人はどれくらいいるだろうか。

もっとも、半世紀以上も前の一映画作品を見る機会なっていうものは、よほどの機会がなければ普通はないのだが。

 ただ、最近の情報取得のプロセスは、それがより顕著で能動的になってきているような気がする。

 基本的に情報というやつはそれそのものだけで完結するものはないと思うのだけれど、ウェブが発達した現代では部分的に抽出された情報だけを簡単に手に入れることができてしまうのでは。

 たとえば「東大 クイズ」というワードで検索すれば、それに関連する情報だけが差し出される。実際のところ、大局的・社会的意義という見地からすると東大に関連するファクターとして「クイズ」などというのは(というとクイズに失礼なんでっしゃろが)瑣末なことでしかないのだけれど。ノイジーマイノリティというのも、たぶんこの辺の問題が関連しているんじゃなかろうか。

 別に今も昔も、誰だって調べたいことを調べるというのは変わらないのだと思うのだけれど、今の場合は思いがけない情報との出会いというものが起こりにくいんじゃないかしらしらしら。なんて書きながら、むしろ技術的には、より「ある情報」に関連する情報というものに触れることは容易になっているはずでは、と思い直す。

Amazonで何かを注文したりカートに入れると、「これを買った人はこんなものも買っています」といった感じで情報の深度が増す。ほかにも、ある動画を見ていて関連動画を樹形図的に飛んでいくことで全く知らない何かに到達するなんてこともあるだろうし。ということを書いた直後に、またまた思い直す。でも、これって結局のところ自分の関心のある部分だけがより一層浮かび上がってくるだけで幅が広がることとは違うんじゃないかなと。

 

 まああれです。みんな色眼鏡というかバイアスを通してしか情報を見れないということですな。どれだけネットに膨大な情報があっても、それとどうすくい取るのかは恣意性による。言うなれば、ざるの網の部分が関心の部分であり、網の目というのが関心のない部分であり情報がこぼれていく穴であるということ。で、自分にとって都合のよいい濾された情報だけが手元に残ってしまう。しかも大抵はそれで満足してしまうため情報に広がりができない。

 Twitterというのは、そういう意味では広がりを持たせてくれるツールでもあるのだけれど、一方で身内を固めるだけの馴れ合いの場になってしまいかねない危険性も同時にはらんでいるような気がする。Twitterやってないから完全に憶測ですが。

 

 あーなんか思っていることをうまく言語化出来ていない気がする。